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15.3.3 ラテンアメリカ諸国とキューバ革命の影響 世界史の教科書を最初から最後まで

第二次世界大戦が終わると、ラテンアメリカへの影響力は政治的にも経済的にも高まった。
その事情を見ていこう。

ラテンアメリカの大土地所有制は、地主が輸出作物・鉱産資源を通じて外国の資本と結びつくことで強く残存。

第二次世界大戦前には、イギリスが7億4000万ポンドを投資していたのだが、大戦後には2億7300万ポンド(1950年)に激減し、代わってアメリカ合衆国が、投資総額が93億ドル(1955年)に躍り出た。


アメリカ合衆国が現地の大地主と協力をして、ラテンアメリカ各地に工場を建設・農地や鉱山を開発し現地人に安い給料で働かせて、利益の多くを吸い上げたのだ。

ラテンアメリカ諸国は、アメリカ合衆国にとっていわば「ドル箱」。

アメリカ合衆国は〈トルーマン〉の提唱した「封じ込め政策」の一環として、1948年4月にコロンビアのボゴタの米州会議で米州機構(OAS)の憲章が締結されて、1951年に発効。
このボゴタ憲章とともに、米州相互援助条約(リオ条約)と米州条約(ボゴタ条約)が結ばれた。


原加盟国はアメリカ合衆国と、中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国25か国。
「侵略された場合は共同行動を準備する」という米州機構を通じ、アメリカ合衆国は中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ地域にソ連の影響が及んで社会主義運動が起きないように圧力を強めていったのだ。
そして、たとえ手荒な政策をとる非民主的な政権であったとしても、国内の左派(ここでは「社会主義的な」という意味)勢力を押さえ込んでくれるならば、資金や軍備を提供してかわいがったわけである。


キューバ革命が成功し、社会主義化する

かつてマヤ文明の栄えたエリアにあたる中央アメリカに「グアテマラ」という国がある。
1954年にグスマン政権が成立し、アメリカ合衆国の企業の土地を国有化に成功。
しかしアメリカ合衆国の諜報機関の工作により倒されてしまう。

「自分の国の資源は、自分の国のものだ」という考え方を「資源ナショナリズム」というけれども、その考え方が真っ向から否定されたわけだ。




これにショックを覚えたのが、アルゼンチン人のゲバラ(1928~67) だ。

彼はグアテマラ新政権により命を狙われたためメキシコに亡命。そこでカストロ(任1959~2008) と出会う。
実はカストロはサトウキビ農園主の息子。彼は大学時代から政治活動に参加し、1950年から弁護士として貧しい人々のために活動していた。

カストロは、どのような思想を持っていたのだろうか?

資料 フィデル・カストロ「歴史は私に無罪を宣告するだろう」(1953年10月16日。3年後に結成される革命運動組織「7月26日運動」の事実上の綱領とみなされている)

(前略)闘いにおいて、われわれが人民と呼ぶのは、生活のため祖国を捨てて移民することなく誠実にパンを稼ぎたいと望みながらも仕事のない60万人のキューバ人。みすぼらしい掘立て小屋ボイオに住み、一年に4カ月だけ働き、残りの月日は子どもたちと貧窮をともにしつつ空腹のうちに暮らし耕すべき一片の土地ももたず、石の心を持たなければ最大の哀れみを誘われざるを得ない50万人の農村労働者。(略 引き続き、工場労働者や日雇い労働者、小農民の窮状について述べる)
第一の革命法は人民に主権を返還し、1940年憲法を国家の真の最高の法として宣言し、その変更の可否を人民の決定に委ねることであった(中略)。
第二の革命法は5カバリェリーア〔67ヘクタール〕以下の土地を占有し耕しているコロノ(★1)、スブコロノ、借地農、分益小作人や、占拠農に抵当権設定や譲渡を禁止した土地所有権を与えることであった。…(後略)
第三の革命法は砂糖セントラル(★2)を含むすべての工業・商業・鉱業の大企業において労働者に利益の30%の参加権を与えることであった。(中略)
第四の革命法はあらゆるコロノにサトウキビ収穫の55%の参加権を3年以上の経歴をもつ小コロノすべてに最小限4万アロバの取得権を与えることであった。(後略)

★1 コロノとは製糖工場や大農場と契約し、サトウキビを栽培する農民。(後略)
★2 大規模製糖工場。(後略)
(出典:後藤政子・訳『カストロ 革命を語る』同文間ん出版、1995年、歴史学研究会編『世界史資料11 20世紀の世界Ⅱ』岩波書店、2012年、182-183頁)


「アメリカ資本の関わる大規模製糖工場による搾取に苦しむ小作人や農民に土地を与えるには、武力闘争しかない!」




――二人はそれを実行にうつし、1959年に少数精鋭でキューバに乗り込み、〈バティスタ〉親米政権(任1940~44、52~59)を倒すことに成功。
この映画みたいなストーリーがメディアの密着映像とともに伝わると、世界各地の熱狂を生んだ。
これをキューバ革命という。

彼らはキューバに政権を樹立し、さっそくアメリカ系の企業を国有化すると、1961年にアメリカがキューバからの砂糖の輸入を停止。
打撃を与えようとした。
そこで、同年、キューバは社会主義国家宣言をし、ソ連側のグループにつくことを表明したのだ。




キューバのミサイル基地をめぐり米ソが鋭く対立する


1962年、キューバにソ連がミサイル基地を配備していることが発覚。。

ロッキード社のU-2偵察機(上空25000mをスパイ飛行できる)からの空中写真が決め手だった。
ミサイルに核兵器を詰めば、アメリカ本土が射程範囲に入ることになる。
「全面核戦争」の危機の勃発だ。

アメリカ合衆国の〈ケネディ〉はミサイル基地の撤去を要求、海上封鎖をおこなった。
空軍はキューバの攻撃を主張したが、〈ケネディ〉の冷静な判断と、ソ連のフルシチョフがこれを受け入れたことで、衝突は回避された。
この“13日間”を「キューバ危機」という。


第三次世界大戦が起こる危機に見舞われたことで、冷や汗をかいた米ソの指導部は、63年にホワイト=ハウスとクレムリンの米ソ首脳の間にすばやいコミュニケーションが図れるようにホット=ラインという直通通信線を設置した(1967年の第三次中東戦争のとき、初めて使用されたといわれる)。



また、63年には部分的核実験禁止条約(PTBT)に米・英・ソが署名。
地下を除く核実験を禁止したことから、これに調印すれば地下での実験も難しい狭い国では核実験が困難になったため、ある程度の効果はあった。

しかし、大国は依然として核実験を継続しているし、フランスと中国はこれに署名せず、やがて核兵器を保有することになる。



ポプリスモの動き


なお、アルゼンチンのペロン(大統領在任1946-55、73-74)のように、社会正義を強調し、民族主義的な改革を志向して共産主義に反対したカリスマ的リーダーも現れた。これをポプリスモといい、ペロンの政治手法をとくにペロニスモという。



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