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3.3.5 五代の分裂時代 世界史の教科書を最初から最後まで

唐の最後の皇帝は、節度使の朱全忠に皇帝の位を譲らされ、朱全忠は「後梁」を開いた。

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その首都は、黄河と大運河の交わる汴州(べんしゅう;ビェンヂォウ)。現在の開封(かいほう;カイファン)だ。
街を運河が貫く汴州は、中国の南北をつなぐ物流の重要拠点。




「経済を制するものは、政治を制する」とは言ったもので、戦乱で荒廃した長安から汴州に都を移したのは、とても良い政治判断だ。

しかし次の50年の間、突厥系の異民族をはじめとする有力な節度使が、王朝を建てては滅ぼされという状況となってしまう。
後梁→後唐→後晋→後漢→後周という具合だ。
この5つの王朝をセットで「五代」(ごだい)と呼ぶよ。

後唐を建てたのは、かつて朱全忠と覇権を争った節度使(李克用)の息子(李存勗(りそんきょく))。この人が突厥(のうちの沙陀族)の騎馬遊牧民であることからもわかるように、五代の時代は軍事力が幅をきかせる武断政治の時代だったのだ。

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だから、貴族の力はすっかり衰え、彼らの荘園を実力でゲットした新興の地主層の力が強まっていった。

彼らの多くは名門貴族出身者というわけではない。

運と実力でのし上がった彼らは、唐の時代の貴族とは違った方法で農地を経営していく。

すなわち、唐のように直接荘園を経営するのではなく、コストダウンと農民のやる気アップのために、買い漁った土地を「佃戸」(でんこ)と呼ばれる小作人にレンタルし、小作料をとる方式をとったのだ。

この画期的な方式のおかげで、新興地主層は経済力を高めて商工業にも従事し、地方における発言力を高めていくことになっていくよ。


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