世界史のまとめ × SDGs 第20回 グローバルなものとローカルなもの(1848年~1870年)
SDGsとは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
17の目標の詳細はこちら。
SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。
公正に貿易がおこなわれるために、人類はどのような努力をしてきたのだろうか?
目標 10.a 世界貿易機関(WTO)協定に従い、開発途上国、特に後発開発途上国に対する特別かつ異なる待遇の原則を実施する。
目次
〈1〉世界経済の覇権を握ったイギリスに、「できたこと」と「できなかったこと」
〈2〉「なんでもあり」の取引が、世界各地を結んだ
〈3〉早い者勝ちの「ゲームのルール」
〈4〉どこの誰だか知らない人を、結びつける商品
〈5〉グローバルなものに飲み込まれていく、ローカルなものたち
〈6〉工業化されたヨーロッパに「国民の国」ができていく
〈7〉人口の増えた都市で生まれた「新しい社会」
〈1〉世界経済の覇権を握ったイギリスに、「できたこと」と「できなかったこと」
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―工業化を達成していたイギリス国内では、輸出向け綿織物製造業だけでなく、その利害にからむ投資家や船会社、さらには船や荷物が事故にあったときのための保険会社などの思惑がからみあっていた。
政治家はどんな対応をとったんですか?
―この時期のイギリスの外務大臣(注:パーマストン)は、「どのような地域であれ、貿易は自由におこなわれるべきだ」という方針をとっていた。
「外国に対してどのような対応をとるべきか」そこで、皇帝の支配していた中国や、南アメリカ諸国に対し、「自由に貿易をさせろ」と要求している。
今までアジアでは、貿易が自由にできなかったんですか?
―いやいや、そんなことはないよ。
たしかに皇帝が許可した商人だけに貿易が認められていたわけだけど、そもそも中国でいう「貿易」は、国外も国内も関係ないとされていた。
皇帝は「全世界を支配する存在」にほかならないと考えられていたからだ。
周辺地域から「レアな特産品」が献上されると、中国の皇帝は絹とか陶磁器といった「文明」を象徴する品を代わりに与える。
その使節には商人グループも随行し、中国で持ち込んだ品を売ったり、皇帝からいただいた品を販売することができた。
皇帝から授かったものには「価値がある」っていう設定があるので、取引も安定する。絹のように「そのままお金として通用する」ものもあったくらいだ。
時代によっては皇帝が強いパワーで貿易をコントロール下に置こうとすることもあるけど、ユーラシア大陸の沿海は、そうした政府のコントロールと民間とが「せめぎあう場」であったのだ。
陸とはちがって、広い海をちゃんとコントロールするのって難しいですもんね。
―そう。
そういう意味で海は、さまざまなグループがひしめき合う場であったのだ。
すでにイスラーム教が広まったころから、ユーラシア大陸を東西に結ぶインド洋を舞台とする商業はさかんだったでしょ。とくにイスラーム商人は、キリスト教徒だろうがユダヤ教徒だろうが、海上や港でたがいに安全に貿易することを重視していた。
すでにユーラシア大陸から北~東アフリカにかけて貿易圏が連なるように分布していた(注:13世紀世界システム(アブー=ルゴドによる))
港町にはさまざまな地域出身の民族グループがいて、問題が起きるとそのリーダーどうしが話し合ってバランスをとる。
アラブ人、ペルシア人、ユダヤ人、インド商人(グジャラート商人)、アルメニア人、中国南部の人々(福建人⇒山下清海「地図からみた東南アジアへの華人の移住とチャイナタウンの形成」『国際地域学研究』5,pp.229-241,2002年)、マレー人、沖縄の琉球人(レキオ人)、日本人、インドネシアのブギス人などなど。
ふるさと(ふるさとがない場合もある)から出て商売をする集団は、グループ維持のために、人と人、産地と港、商品と資産をむすぶ膨大なデータを蓄積している。
資金の融通や事故が起きた際の保険など「助け合い」のコミュニティという機能も充実していた。
だからこそ国が他国を貿易をする際にも、彼らのノウハウを無視することはできなかったのだ。
ヨーロッパ諸国がユーラシア大陸の沿海にやって来る以前から、この地域はじゅうぶんグローバルだったんですね。
―そうだね。
「グローバルな資本主義経済」は、近代(注:1500年~1650年の前後)からヨーロッパ諸国が中心となって作り上げていったのだという説(注:ウォーラーステインの「近代世界システム論」)にも説得力はあるけれど、ヨーロッパ以外の地域の歴史がどうだったのか研究がすすむにつれて、ヨーロッパ中心の単一の成長ストーリーがあるとはいえないことも明らかになっていった(注:ポメランツの研究など)。
はあ。
―ちょっと難しいかもしれないけど、これは現在の世界を理解する上でも大切なことだよ。
「ヨーロッパが世界経済をつくった」っていう説明だと、逆に言えば「進出される側のアジア」は、「されるがまま」に支配に服従したっていうイメージになっちゃう。
でも、実際にはヨーロッパ諸国がやってくる前にも、じゅうぶん広域な貿易圏があって、安全に貿易するためのさまざまな制度が積み重なれていたわけだ。
でも、ヨーロッパ諸国がこの時期に世界各地の取引に割り込んでいったのは事実ですよね。
―そうだね。
初期のころ(1500~1650年ころ)には、ポルトガルをはじめとするヨーロッパ諸国は圧倒的な軍事力を持ち込み、無理くり貿易に参加しようとした。
当時の船はまだ帆船で、ヨーロッパ諸国に武力で対抗しうる勢力も各地にあった(注:スマトラ島のアチェ王国や、西アジアのオスマン帝国)。
それに対してヨーロッパ諸国の商人たちは、金品を積む船を襲い積荷をゲットした。「船を襲撃する集団」(注:バッカニア)がはびこったわけだ。
まともに貿易できないからこそ、船を襲撃するしかなかったんですね。
―そう。
でも、そんな状況を打破したのは、絶大な海軍力を保有することになったイギリスだ。
イギリスは産業革命によって生産力をアップさせていたけれど、前の時期(1650~1760年)にはまだ自国に有利な形で海外を経済的に支配しようとする段階にまで至っていなかった。
どうしてですか?
―そもそも本国から遠く離れた土地をちゃんと支配しようとすることは大変なことだし、輸送コストも高くつくよね。
襲撃されるリスクもあるし、アジアの商人グループの持つノウハウを利用しなければ貿易の利益にもあずかれない。
そういうわけで、ヨーロッパ諸国の進出したアジア各地の港には、現地の商人たちが住むエリアもつくられて、ヨーロッパでもなければアジアでもない独特なエリアが形作られていくこととなった。
でもその削減を可能にするテクノロジーの開発が、イギリスの世界進出を後押しすることになったんだ。
それは何ですか?
―前の時代に発明されていた蒸気船だ。
蒸気機関による圧倒的パワーによって船体を推進させることが可能となり、帆船のように理想的な風向きを待つ必要がなくなり、なおかつ船のサイズも巨大化したんだ。
イギリスは進出先の海での海賊行為を厳しく取り締まり、それを可能にするための海軍力も有していた。護衛をつける必要がなくなったことから、輸送にかかる費用はさらに低下していくこととなる。
かつては長い時間をかけて運ばなければいけなかった物が安いコストで運べるようになると、いままでは高級品だったものが簡単に手に入るようになり、「世界のどこでも通用する商品」(注:世界商品)が出現する。その代表格は、チョコレートやコーヒー、紅茶といった「なくても困らないが、あると嬉しい」飲食物(注:嗜好品)や人体になんらかの悪影響をおよぼす依存性の高い物質(注:アヘンやタバコなど)だ。
さらにこの時期の末には、地中海とインド洋をむすぶ人口の水路(注:スエズ運河)がフランスと、その誘いを受けたエジプト国王の投資により完成。
こうしてヨーロッパ諸国とアジアとの距離が、ますます短縮されることになっていったんだ。
***
〈2〉「なんでもあり」の取引が、世界各地を結んだ
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交通がさかんになると、より一層ヨーロッパ諸国による支配が高まりそうですね。
―うん。
でも、この時代になるとアジアのいくつかの地域では、イギリスによる支配権が強められ、イギリスにとって都合の良い貿易システムがつくられていく。
例えば、シンガポール。
シンガポールはもともと大したことない漁村の広がる小島だったんだけど、この時代にイギリスの派遣した総督が絶大なパワーを握る。
地理的に中国近海とインド洋の「真ん中」に位置することから、交通の重要地点として急激に発展。
前の時代に結ばれたオランダとの協定(注:英蘭協定)によって、イギリス公認の「関税がかからない港」(注:自由港)に設定され、さまざまな民族があつまって繁栄する(下図を参照(出典))。
イギリス商人にとってのビジネスチャンスですね。
―ところが実はビジネスの中核を占めていたのは、インドや中国の商人なんだ。
彼らはイギリスの民間会社に、インド産のヤクを売りつけて荒稼ぎした。
薬なんて、違法じゃないんですか?
―イギリスはインドで「ケシ」という植物を栽培し、幻覚症状や快感をもたらす依存性のある薬物をとりだし、これを先ほどのインド商人やイギリス商人経由で中国に売りつけることで大儲けしていたんだ。
こういう薬物はいつの時代でも高値がつく。
インドにも利益をもたらしたけど、イギリスはインドに綿織物などの工業製品を販売することで、インドからも富を吸い上げた。
つまり、薬物の取引によって、イギリスは中国に対しても、インドに対しても、ボロもうけを出すことが可能となったわけですか。
―そう。
中国は人口が3億人を超す魅力的な市場。
1人1円出しても、3億円がもうかるわけでしょ。
でもどんな物でも売れるとは限らないよね。
中国が伝統的に欲しがっていた産物は、東南アジアのサトウキビ、香りの出るお香(おこう。注:ビャクダン)、中華食材のナマコやフカヒレ、燕の巣。それに中国製綿織物の材料であるインドの綿花だ。
でも、こういうものをマジメに仕入れようとしても、大変だ。イギリスの起業家は、フィリピンにあったイスラーム教王国(注:スールー王国)から奴隷を買い付け、それを労働力にして手に入れようとしたけど、手間もかかる。それに、サトウキビや綿花は中国でも栽培ができる。
結局、楽をしようとなるとアヘンを栽培しようということになるわけ。
中国人の商人も参加したっていうことは、中国にも利益はあったんでしょうか。
―海外でビジネスをした中国人商人は、ふるさととのつながりがあれば利益の一部をふるさとに送金した。
また、この時期の初めにイギリスとの戦争で港での貿易をみとめることになった「上海」(シャンハイ)という港町には、イギリス人の居住区ができ(注:居留地)、貿易のチャンスを求める中国人街もできていった。
上海は長江という川の河口にあって、当時の中国の3分の1が、この河口の三角州エリアに分布していたほどの経済の中心地。
上海の中国人商人は、この時期に起きた農民による大反乱(注:太平天国の乱)の際、陸のルートを回避して海ルートの海運でボロもうけし力をつけ、しだいに上海の町は政府の目をかいくぐって暗躍する”裏”のネットワークが張り巡らされる空間へと成長していく(ケネス・ポメランツ『グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界』筑摩書房、2013年、p.103)。
イギリスの力が強いと思っていましたが、意外に現地のアジアの人たちの力も大きかったんですね。
―でしょ。
イギリスが入り込もうとしても入れない領域も多かったからね。
文化っていうのは、押し付けるのは難しいものだ。
アヘンのほかに、この時期に世界的に取引されるよになった物はありますか?
―例えばこれ。
グアノ (アルジャジーラ記事「Collecting guano along the coast of Chile」より)
これ何ですか?
―グアノといって、海鳥の糞が長い年月をかけて岩石化したものだ。
どうしてそんなものを?
―グアノは火薬と肥料の原料となったんだ。
火薬はヨーロッパ諸国による海外への進出に役に立ったし、肥料によって工業化が進み人口が増加することによる食糧不足も解消した(注)。
主な生産地は南アメリカの太平洋沿岸や太平洋の島々。
イギリスは、スペインから独立した南アメリカ諸国に目をつけ、この時代になるとようやく経済的な支配下に置くように。
この時代の後半には南米チリの国家歳入の75%を占めるに至る(この時期を「グアノ時代」というくらいだ)。
大量にグアノを輸送することができた背景にも、蒸気船や鉄道といった発明がある。
(注)人口の増加の勢いに,食糧増産の勢いは追いつけないので,人口は必ずどこかで行き詰まるとする「マルサスの罠(わな)」の考えが破られたわけです。これ以前の農業は,地面を一生懸命ガリガリ耕して,丹念に植物を育てる営み。しかし、化学肥料の登場により,種をどさっとまいて,そこに「栄養分を畑にどさっとまく行為」が,新しい時代の農業になっていきます(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154)。
また,1860年代にペルー南部のアカタマ沙漠で火薬の原料となる硝石が発見され,こちらの輸出も盛んとなりました。これらの産業には中国人労働力も導入されるようになる。
ペルーに向かった中国人出稼ぎ・移民の下層労働者(苦力;クーリー)の多くはは,リマの東200kmに位置するチンチャ諸島のグアノ採掘にあたりました(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154)。
グアノを重視したアメリカ合衆国は1856年にグアノ島法を制定。アメリカ国民がグアノのある島に到達したらアメリカが領有できることとなり,1903年までに66の島と環礁が領有されました。しかし,多くは放棄され,うち9島がアメリカ領となりました。太平洋にアメリカ領の島々が散在している背景のひとつです。
* * *
〈3〉早い者勝ちの「ゲームのルール」
じゃあ、チリはさぞかしもうかったんでしょうね。
―そこが味噌なんだよなあ。
そもそもグアノのように自然にある物を国外に輸出するだけで、国が豊かになると思う?
う~ん、もうかるから豊かになるんじゃないですか?
―問題が2つあるなあ。
1つは、もうかったお金がどこに行くか?
一部の輸出業者のふところに入るだけだとしたら、国全体が豊かになるとは限らないよね。
もう1つは、そもそも工業製品をつくれない国が、「豊かな国」になれるかっていうところだ。
工業製品を作れなきゃダメなんですか?
―この時期のヨーロッパ諸国は、工業製品を自前でつくり、それを輸出することで力を蓄えていったよね。
その原料供給先と販売先を確保することができたのは、遠距離の交通ルートを手軽に結ぶ蒸気船や、圧倒的な軍事力を可能とする武器があったからこそだ。
蒸気船も武器も「工業製品」だよね。
そうした経済的な力の差に圧(お)され、自国で「工業製品」をつくることができない国は、経済的に強い国に対して自分の国でとれる自然の物(注:一次産品)を渡し、「工業製品」を輸入するようになっていく。
すると、政治的にも強い国のルールに従わざるをえなくなっていくことになる。
経済的に依存する関係になっちゃうと、下手(したて)に出ざるをえなくなっちゃうからね。
グアノの他に、この時期に世界で取引された物はありますか?
―うーん、これ。
何ですか、これ―。
―コチニールカイガラムシというカイガラムシ(右)だ。これを原料に、左の赤い着色料が製造されるんだよ。
伝統的には糸の染料や塗料に使われたり、身近なところではカニカマなどの赤に使用されてきた(虫の実物はちょっと…と思うかもしれないから、見たければ自分でしらべてね)。メキシコやペルーで採取される。
こんなの「用途」がわからなければ、価値があるなんて絶対わからないですよね。
―そうそう。
それが何の役に立つかなんて気づかなければわからないし、ある物がどんなふうな意味を持つかなんてことも、社会によってさまざまななのが普通なわけ。
でもこの時期はというと、各地で別々の価値をもっていた物が、「世界どこでも通用する価値」へと変わっていく例が生まれるようになっていくんだ。
ローカルなものが、グローバルに広まっていくわけですね。
―そうそう。
◆お茶
もともとお茶はインドから中国。そこからモンゴルやシベリア(注:磚茶(たんちゃ)に広まり、仏教のお坊さんの眠気覚ましとして普及したものだった。
◆コーヒー
コーヒーはエチオピア原産で、イスラーム教の修行教団(注:スーフィー)の眠気覚ましとして普及した。
◆カカオ
カカオはアメリカ大陸原産で、かつては神様につかえることのできるとされた王族や貴族が摂取するものだった。
それが、この時期には、イギリスは(初めコーヒー)のち紅茶、ロシアは紅茶、フランスやアメリカはコーヒー、カカオはスペイン(この時代にはオランダでバンホーテンさんが発明したココアパウダーが広まっている)というように国ごとに嗜好の差はあれど、遠距離間をこうした嗜好品が短期間で行き交うようになり、地球規模に広がるようになっている。
見たこともないところで、会ったこともない人のつくった物が、短時間で、やはり見たこともないところの、会ったこともない人の食卓に届けられる時代の到来だ。
こうして、もともと狭いエリアでローカルな意味づけがなされていた物に、新たな意味付けが加わるようになっていく。
イギリスって「紅茶」っていうイメージが強いですよね。イギリスはどうしてコーヒー党から紅茶党に変わったんですか?
―よく、アメリカ合衆国から独立したときに、イギリスの御用会社が売りつけてきた紅茶をディスるために、コーヒーを飲むようになったと説明されるけど、その後アメリカ合衆国でコーヒーが普及していった要因は、「コーヒーを栽培してくれる奴隷」が、熱帯地域であるブラジルに送り込まれていたからだ。
なぜブラジルでコーヒーが栽培されたんですか?
―ブラジルは一つ前の時代に皇帝の国(注:ブラジル帝国)として独立し、イギリスが廃止しようとしていた奴隷制も奴隷貿易も公認したままだった。皇帝(注:ペドロ2世)は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力。
砂糖の価格低下や金鉱山の枯渇によってあえいでいたブラジル経済の救世主として、コーヒーに熱い視線が注がれたというわけだ(下掲書、p.51)。
また,天然ゴムの栽培・出荷も右肩上がり。1856年から1896年にかけて輸出量は10倍に増え、アマゾン川加工のベレンは天然ゴムのおかげで金融センターに成長していった。
(注)ブラジルにおける天然ゴム生産の独占
ゴムによる繁栄は,1876年にイギリスの産業スパイが禁を破って天然ゴムを国外に持ち出すまで続く。1897年には早速イギリスの植民地のセイロン島とマレーシアでも栽培が開始されることにある。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160。
南アメリカの農園で働いていたのは奴隷だけですか?
―黒人奴隷の他、数百万人の移民がヨーロッパから導入されたんだ。
これはブラジルに“ヨーロッパの風”を吹き込ませることとなり、ヨーロッパの自由を重んじるな制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいった。
アメリカ大陸に大量の移民が流れ込んでくるのは、実はこの時期のことなんだ。
* * *
〈4〉どこの誰だか知らない人を、結びつける商品
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ほんとうにいろんな物が、欲望と結びついていく時代なんですね。
―いつの時代にも、ある特定の物が「欲望」と結びついてやりとりされるということはあったわけだけど、この時代にはそのやりとりの範囲が地球のあらゆる場所と場所との間に拡大し、さらには絶大な軍事力を背景にヨーロッパ流の「欲望」観が世界中に広まっていくことになる。
「インド(ダージリン)で美味しいお茶がとれるぞ」ということになれば、住民を強制移住させてまでも、ハイクオリティなお茶を生産しようということになるし(注)、「アヘンを中国に密輸すれば稼げるぞ」となればためらわずにやっちゃうわけだ。
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良心は傷まなかったんでしょうか?(笑)
―「別に俺がやっているわけじゃないんだ。会社がやってるんだ」って思えばいいわけ。
ビジネスの規模が大きくなるにつれて会社の重要性が高まると、より多くの出資を集めるために、「資金を出してくれた人」に対する「説明責任」も求められるようになっていく。
同時に、事業に失敗してしまったときの責任も、もはや個人ではとうてい償いきれないスケールとなっていいった。
そこで必要となったのは、会社が手がけるプロジェクトを「長い目」で見た時に発生する「利益」が、どうやって生まれるかを、誰にとっても納得する形で表す仕組み(注:財務会計)だ。
規模の大きなビジネスって例えば何ですか?
―この時期の典型例は鉄道だ。
鉄道を敷いたり、機械を導入して工場をつくったりするには、たくさんの元手が必要になるでしょ。
地主を説得して土地を取得し、トンネルや切通の工事を行い、レールや枕木そして駅舎を準備し、機関車と客車を製造する……開業時には莫大な支出がかかります。これを「支出ベース」で形状するのではなく、「数期に分けて費用計上」すればいいのではないか――彼らはそんなことを思いつきました。(田中 靖浩『会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語』日本経済新聞出版社、pp.164-165、2018年))
この結果編み出されたのが「減価償却」(げんかしょうきゃく)という表現方法というわけだ。
つまり、鉄道のような大規模な資金を必要とするビジネスの登場により、会社は巨大化し、鉄道のように「みんなの使うもの」(注:公益性が高い)を扱うビジネスの重要性が高まることで、会社と国とのつながりも大きくなっていいく。
会社がどんな事業をしているか、投資家は「利益がどのように生まれるか」記録した書類(注:財務諸表)によって把握し、出資をしたりお金を貸したりするようになった。
「お金を貸した人」は「将来、利子とともにお金を受け取ることができる権利書」(注:債権)を発行してもらったけど、この時期にはその「債権(利子付きのお金を将来受け取れる権利)」自体を、取引そのものに関係ののない第三者が買ったり、それをさらに売ったりする場(注:債券市場)も成立したよ。
このように会社の存在感が高まれば高まるほど、「人」と「人」の直接のやりとりが減っていき、「物をつくる人」と「買って消費する人」との間にギャップが生まれるようになっていくんだ。
「工業化した国」が、「工業化していない国」に大量の資金を貸し付ける事例も相次ぐようになる。
その資金の返済をめぐり、借りた国が「返せない!」と白旗をあげると、いろんな国の「工業化した国」の投資家が「借りた国」の政治に対して強硬に干渉するような事態も引き起こされている(注:フランスのメキシコ出兵時のメキシコ債権問題)。
ほかにターゲットになった国は、オスマン帝国だ。
この国の皇帝はヨーロッパから資金を借りて、ヨーロッパの技術を導入しようとした。これが元で借金漬けになってしまう。
しかもロシアとの戦争に単独で勝つことができず、助けてくれたイギリスやフランスの言うことをますます聞かざるをえなくなった。
そんな皇帝に「うまいもうけ話がある」とフランスの実業家が誘って作ったのがスエズ運河だ。地中海とインド洋を船に乗ったまま渡ることができる人口の水路だ。
ついに地中海とインド洋が連結されたわけですね!
―でも工事はきわめて大変だった。地中海のほうがとインド洋よりも25cmほど水位が低かったためだ。
でも、水位調節用の「仕切り」(注:閘門(こうもん))をつくるほどの差ではなかったため、海水は自由に行き来するようになっている。
「仕切り」を作る場合があるんですか?
―異なる海をつなぐには必要な場合もあるよ。例えば、大西洋と太平洋をつなぐパナマ運河は「仕切り」をつくって、水位を上げ下げすることのできる運河(注:閘門式運河)だ。
で、このスエズ運河、フタを開けてみれば大赤字。
なんだか無残ですね…。お金をいっぱいかけたのに。
―オスマン帝国の皇帝って、イスラーム教徒の多数派グループのリーダー格でもあるよね。「カリフ」といって、イスラーム教徒を始めた人の「代理人」という意味だ。
そんな悲惨なカリフの姿を見て、こんなふうに考えた人がいた。
「われわれイスラーム教徒が苦しんでいるのは、自分たちにも責任がある。「ヨーロッパ文化」にかぶれて、自分たちのイスラーム教の伝統を捨ててしまったからだ!」
「ヨーロッパに対抗するのに、ヨーロッパみたいになる必要はない。われわれイスラーム教徒のやりかたで、社会を進歩させることだってできる。そのためには、ヨーロッパ諸国の言いなりにならず、国や地域や民族を超えて団結することが必要だ!」(注:パン=イスラーム主義)
この考えは、次第に共感する人を増やしていくことになるよ。
(参考)鉄道とお茶のコラボレーション
生産された綿花と茶は,内陸部まで敷設された鉄道によって港湾に積み出され,各地に輸出されました。こうして生み出された貿易黒字が「本国費」(ほんごくひ)してイギリスに送られ,圧倒的に貿易赤字であったイギリスの貿易収支を補う役目を果たしたのです。当時,イギリスが黒字を出していたのは保険事業や海運事業などのサービス部門に限られていました。「本国費」を使うことでイギリスから派遣された官僚の給与・年金を支払うことができ,またインドへの投資に対する配当金,インドにおける傭兵の雇用などの軍事費にあてることができたわけです。まさにインドからの“富の流出”。イギリスが最後の最後までインドにこだわった理由はそこにあります。
―さて、こうして会社の存在感が高まれば高まるほど、「物をつくる人」と「買って消費する人」との間に、ギャップが生まれるようになっていく。
例えば、「バナナとパイナップルはドール」っていうキャッチフレーズがあるわけだけど、これって別に「ドールさん」がつくっているわけじゃないでしょ?
いや…当たり前じゃないですか。
―じゃあ誰が作っているの?
農園で働いている人じゃないですか? その会社で働いているんだったら、きっと信頼できると思います。
―そう。
「信頼」って大切だよね。
じゃあ、バナナを買うとき、何に対して信頼するか?
会社の名前とか、ブランドとか―。
―このシールを見るわけでしょ。
このブランドなら「大丈夫だ」と信頼する。
誰がつくっているかはわからないけど。
なるほど。わかりました。会社の存在感が強くなると、物の中身よりも「見た目」とか「イメージ」が重要になっていくってことですよね。
―そういうこと(ドールは安全基準にのっとって栽培しているということだけど)。
こうして、中身を見ずに「見た目」とか「会社名」で商品を選ぶ時代が到来したというわけなんだ。
会社は、商品にさまざまなイメージをつけようと努力した。
遠い場所にある「知らない」ものには、どこかエキゾチックなロマンがあるよね。
そういうイメージをうまく利用した広告が、商品の「価値」をつけるために使われていくようになるんだよ。
* * *
〈5〉グローバルなものに飲み込まれていく、ローカルなものたち
Photo by Steve Halama on Unsplash
ビジネスの規模がグローバルになっていくと、いろいろと悪影響が起こりそうですが。
―それも心配だよね。
「近いところ」で開発するのと、「遠いところ」で開発するのでは、心理的にも後者のほうが「いい加減」になりやすい。
そこに住んでいる人や環境のことを考えなくなりがちだ。
代表的なところではアマゾンの熱帯雨林がある。
コーヒーの栽培に都合がいいとわかると、伐採が加速した。
伝統的な焼き畑農業をやっていた人たち(注:トゥピナンバ人)は奥地に避難し、森の奥地へと追いやられていくことになる。
鉄道の建設が、さらにトドメを刺した。
住民たちは怒らなかったんですか?
―この時期には、大勢の人が集まって立ち上がる事件も起きている。
例えばイギリスの植民地となっていたインドだ。
綿花を育てるのに最適な場所だし、鉱産資源も豊富だ。もともといろんな国があったんだけど、イギリスはそのほとんどをそのまま残し、間接的に支配をしたんだ。そうすれば住民からの不満が直接イギリスに向かわなくて済むからね。
反乱のきっかけは宗教的な理由だった。
宗教っていうと、仏教、そしてインドの多数派ヒンドゥー教と、後から広まったイスラーム教ですか?
―仏教はもうすたれてしまって、ヒンドゥー教に人気がうつってしまっている。発祥の地なんだけどね。
当時のイギリスはインドに軍人をたくさん派遣することができなかったから、代わりに現地のインド人を兵隊として雇っていたんだ。
で、彼らに支給した新式の銃に、ヒンドゥー教徒が口にしてはいけない牛と、イスラーム教徒が口にできない豚のあぶらが塗られているという噂がたった。
それが発端だ。
ヒンドゥー教では牛は神聖、イスラーム教では豚は汚いとされていますもんね、たしか。
―短期間で反乱は鎮圧されたけれど、イギリスは直接インドを支配しようと仕組みを整えていくよ。
どうしてそこまでして支配したかったんですか?
―インドから得た税が、そのままイギリスの利益になるからだ。
当時のヨーロッパやアメリカ合衆国では、イギリスが開発した最先端の蒸気機関をマネして、工業中心の社会ができあがりつつあった。
つまりイギリスにもライバルが増えていたんだ。
でもイギリスには世界津々浦々に植民地や拠点を持つという「強み」があった。しかも、これまでの「もうけ」もたくさんある。
イギリスは「ものづくり」部門の赤字を、船の運行やお金を貸すことで穴埋めしようとするようになっていくんだけど、インドから得る収入も、その「赤字穴埋め」のためは重要な収入源だったんだ。
インド人の中には、工業化に挑戦する人はいなかったんですか?
―インド人の商人の中にも、イギリスの機械を導入して工業にチャレンジし、富を築く人も現れている。
綿の糸や織物の会社で億万長者となり、日本、東南アジア、中国との取引でさらにビッグになっていく財閥も出てくるよ。
ちなみに、午後の紅茶の―お茶っ葉の農園で有名なスリランカのお茶畑は、このときにイギリスの会社が切り拓いたものだ。働き手には南インドの人たち(ヒンドゥー教徒)が採用されたから、もともといた仏教徒との関係がしだいに悪くなっていくことになる。21世紀まで続くスリランカ内戦のルーツだ。
アメリカ合衆国でも、西のほうに住んでいたインディアンが次々と征服されていましたよね?
―そうだね。
世界中で「移動生活を送る人たち」の生活エリアが、どんどん縮小してしまっているね。
もちろん「インディアン」とひとくくりに言うけど、定住して農業している人もいれば、移動して狩り・採集・漁業をしている人たちもいる。
この時期にはアメリカ合衆国の人々が「西部開拓」を推し進め、インディアンの土地を奪うだけでなく、この地にいたバイソン目当てのビジネスが加速し、絶滅寸前にまで追い込んでいる。
太平洋岸では同じように海沿いに住む哺乳類(注:セイウチやラッコ)やクジラが大量に狙われている。
科学技術によって効率よく動物を捕獲することができるようになったためだ。
本当に「地球レベル」でさまざまな物が結びつけられていますよね。
―そうだね。
それまで、この時代ほど多くの物が短期間のうちに地球上で取引されるということはなかったよね。
その発端の一つとなったのが、この時代初めの「アメリカの太平洋岸における大量の金の発見」(注:カリフォルニアのゴールド・ラッシュ)。
そんなにたくさん見つかったんですか!
―それまでの150年のうちに見つかった金の総量をはるかに上回るほどの金だったんだよ(ポメランツ、上掲書、p.179)。
カリフォルニアに行けば「一攫千金」とばかりに大勢の人が殺到し、荒野のさびれた田舎町が、4年後には25万人の大都市に成長したんだ。
これによって太平洋岸の重要性が高まると、「初期のアメリカ合衆国」を形成した大西洋岸をむすぶ必要が生まれ、パナマに鉄道が建設され、所要時間が短縮された(まだ運河はできていない)。
アメリカ合衆国は大西洋だけでなく、太平洋に面する国になったんですね。
―そう。
日本にとってみれば、要するに「隣の国がアメリカになった」ということだ。
蒸気船の発明によって輸送が大変ではなくなると、もはやアメリカは海を隔てた「遠い国」ではなくなったということだ。
というわけでその後のアメリカは、パナマ周辺のカリブ海だけでなく、太平洋にも目を向けるようになっていく。
この時期にはアメリカ合衆国によって、日本が開国されているよね(注:ペリー)。
* * *
〈6〉工業化されたヨーロッパに「国民の国」ができていく
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どうしてヨーロッパ諸国そんな軍事力が世界中で使えたんでしょう?
―いちばんには、何度も言うように、工業化によって蒸気力が普及したことが大きいね。
ほかには、国内の対立はあるにしろ、外国に利益を求めようとする点では「国が一丸(いちがん)となっていた」点が大きい。
「国が一丸となること」― それが、新しい時代には何よりも求められたことだ。
そのために、王様が独断(どくだん)でイバっていればよかった時代は終わり、ルールに基づいて国民が納得する形で国を建設していこうという時代になっていったわけだ。
「ルール」っていうのは憲法のことですね。
―そう。
国を運営する人たちが守らなければいけないルールだ。
イギリスではすでに2つ前の時代(注:1650~1760年の世界を参照)に、国王を縛る取り決めが定められていたよね。
これによって「国民」の所有権が保障され、ビジネスをする上での大事な前提も整ったわけだ。
ただ、「国民」っていっても、「誰が政治に参加できるか」をめぐって、この時代はまだまだモメているよ。
どういうことですか?
―工場で製品をつくるビジネスを営む資本家に選挙権が与えられていたけど、まだ「貧しい人」には政治に参加する資格がなかったんだ。
お金持ち主導で強い国をつくろうってときに、「貧しい人」たちが「平等な国をつくろう!」なんて言い出したら、ジャマなわけだ。
結果的に労働者(雇われる人)の政治に参加する権利はなかなか認められず、経営者(雇う人)や出資者(資金を持っている人)の意見ばかりが政治に反映されていくようになる。
すると次第に国は、なるべくそういう人たちの意見を反映させようと、海外の植民地を増やそうという行動に出るわけだ。
そうすることで票が得られるし、植民地を増やすことが利害関係者を「豊か」にしていたからだ。
でも、いつまでも国内で内輪もめしている場合じゃないですよね。
―そうだね。
そこでヨーロッパやアメリカ合衆国では、お金がないからといって文句をいうんじゃなくて、まずは国のことを優先的に考えられる人を育てようと、教育制度を整えていくことになるよ。
方言をなくしたり、国の“正しい”歴史を教えたりね。
教会に代わって小学校が重要になっていく。
まあ、経済が豊かになっていけば、次第に生活レベルも上がっていき、給料も上がっていた。
だから、だんだんと雇う人と雇われる人の対立は、特に先進エリアの西ヨーロッパでは減っていくことになるよ。
でも、遅れた地域である東ヨーロッパでは、しだいにこの対立が激しくなっていくことになるんだ。
でもこの時代のヨーロッパって、そんなに大きな戦争ってありましたっけ?
―各国がけん制し合いながら国内をまとめることに集中していたことと、前の時代に起きた大戦争(注:ナポレオン戦争)の記憶が歯止めをかけたこともあって、大きな戦争は起きていない。
でも、ヨーロッパとイスラーム教徒エリアの境界地帯では、何度も大きな戦争が起きている。
つまり、バルカン半島から地中海の西部にかけてを支配していたオスマン帝国と、その領土をねらう国々どうしによる戦争だ。
当時のオスマン帝国は国力が衰えると、「南に下がりたい」ロシアが地中海に支配権を広げようと頻繁にからむようになった。
インドに向かう最短ルートとして、オスマン帝国の支配エリア(とくにエジプト)を確保しておきたかったイギリスは、周辺の国を誘って何度もロシアの動きを阻止しようとしたんだ(注:クリミア戦争)。
周辺の国ってどんな国ですか?
―皇帝の支配していたフランスだ(注:ナポレオン3世のフランス帝国)。
えっ、フランスってまた皇帝の国になっていたんですか?
―前の時代の混乱を背景に、国民投票によって皇帝に即位したんだ。かつての軍人皇帝の甥(おい)にあたる人物だ。
彼は工業化によって国を豊かにするために、海外に積極的に植民地をゲットしようとした(注:サン=シモン主義)。
彼の野望はイギリスを追い落とし、世界経済の覇権を握ること。
「金」を世界経済のメインのお金にしたいイギリス(注:ポンド金貨)と、「金」だけでなく「銀」も使いたいフランスとの間に、バトルが繰り広げられていた。
皇帝は世界のさまざまなところにすきあらば軍を送った(注:中国のアロー戦争、現・ベトナムの王国との戦争、ロシアとの戦争(注:クリミア戦争))、スペインから独立していたメキシコに軍隊を送って、支配下に置こうとしたけど、結局失敗。
隣で「ドイツ人の統一国家を建設しようとしていた」プロイセン王国によって最後は捕虜(ほりょ)にされてしまった(注:普仏戦争)。
* * *
〈7〉人口の増えた都市で生まれた「新しい社会」
先ほどの中国のシャンハイのように、ヨーロッパ諸国の影響下に、さまざまな人が集まるグローバルな都市がアジアにできていますね。
一方で、当時のヨーロッパにある町はどのような感じになっていますか?
―産業革命(工業化)の結果、19世紀後半には大半の人が都市に住むようになり、ヨーロッパの首都や工業の中心地にある都市の人口は、どんどん膨れ上がっている。
より少ない人手で、より大きなパワーが扱えるようになったことから、食料の増産が可能となったことも背景にある。
プロイセン王国によって最後は捕虜(ほりょ)にされてしまった(注:普仏戦争)。
人が増えると問題も起きそうですね。
―都市ではたらく労働者の通勤が増加したことで,馬車の利用が増え、ロンドンでは(馬糞による)「大悪臭」(下図、wikimedia commonsより)といわれる公害も発生している。この時期のロンドンでは何度もコレラが大発生した。
ロンドンの人口の変遷(ワシントン・ポストより)
そこで,生物学の発展で感染症の発生を防ぐ公衆衛生の必要性が知られるようになると,下水道や上水道の整備が急ピッチに進み,この時期の終わりごろには世界最初の地下鉄(注:ロンドン=アンダーグラウンド。チューブ)が運行されている。
目標 11.1 2030年までに、全ての人々の、適切、安全かつ安価な住宅及び基本的サービスへのアクセスを確保し、スラムを改善する。
地下鉄は、もうこの時代にできていたんですね!
―それに、今みたいに電気の力では動かない。
今とはちがって、浅さも地面スレスレだった。
動力のエネルギー源となる石炭の煤(すす)が原因のスモッグの問題は、ながらく解決されなかったよ。
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「公害」ってやつですね。
―そう。
自分だけのことを考えて「お金もうけ」を追求すると、環境が破壊され、めぐりめぐって自分や他の人たちにとって損になる(注:外部不経済)という考えは、まだ浅かったんだ。
一方、この時代にはイギリスの発明家が安価に鋼を大量生産できる方法(注:ベッセマー法)を完成させている。
それってすごいんですか?
―耐久性の高い鉄(注:鋼(はがね))の大量生産が可能となったことで、今後、鋼はさまざまな巨大建造物(工場・高層ビル・鉄道・自動車・蒸気船)、さらにもちろん軍事技術に応用されていくことになるよ。
ロンドンの時計台(注:ビッグベン)が建てられたのもこの時期だ。
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こういう技術のレシピ(製造技術)は、はじめ極秘とされたけど、便利な知識っていうのは、ほっとけばどんどんパクられるのが普通だ。
でも、この時期には「ものづくりのアイディア」は、「アイディアを考え付いた人(または会社)のもの」であるという制度がつくられていった。登録商標や特許の制度だ。
初期にはなかなか守られなかったけど、この時期には国際的なルールもつくられるよういなり、ある特許を使う場合には、特許料を支払って、アイディアをお金で買わなければならなくなっていった。
アイディアひとつで莫大な富が築かれるってことですか。
―そう。
例えば、この時期の初めにはには世界初の実用的海底ケーブルがイギリスのドーバーとフランスのカレーの間にしかれている。
銅線に電気信号を流して、送り手の情報を遠く離れた受けてに瞬時に発信することが可能になったわけだ。
なんと、大西洋を横断するケーブルも開通している。
こうした有線通信は、イギリスが世界中を植民地支配するにあたっても,大変便利な科学技術となるし、イギリスの「規格」をいち早く全世界の「スタンダード」にすれば、イギリスにも都合がいいよね。
となると、世界中の情報が都市に流れ込んで来そうですね。
―その通り。
この時代には、国民をまとめて強い国をつくるために、幼いころから「国の設置した学校(注:小学校)」での教育が普及していき、ビジネス上の必要もあったことから「文字が読める人」の割合も高まっていった。
それとともに多くの人を対象にするマスコミも発展し、いちどに何十万人もの人が同じ情報を目にし、一喜一憂するようになっていった。
都市にはさまざまなバックグラウンドを持つ人々が住んでいるから、しばしば民衆のデモや騒ぎも起きる。
会社の経営者から日雇いの労働者にいたるまで、都市に住む人の格差もまだまだ大きかったからね。
豊かになる一方で、あたらしい問題も生まれていたんですね。
―ただ、全体的なノリとしてはけっこう楽観的だ。
科学技術がなんでも解決してくれるっていう期待もあった(注:スペンサーの社会進化論)。
また、一方では産業革命(工業化)が進行し,農村部の人々が都市部に移動すると,もともと農村で行われていた慣習が都市の中流・上流階級にも伝わるようになっていった。
つまり、これまで「階級別」に分かれていた国が、「国としてのまとまり」を意識させるようなものが生まれるようになっていたんだ。
例えば何ですか?
―代表例はスポーツだ。
ただし、田舎でおこなわれていた伝統的なスポーツはちょっと暴力的で、お祭り騒ぎからケンカ騒ぎに発展してしまうこともしばしばだったことから、“お行儀よく紳士的に”競技を行うためにルールの策定が必要になった。
例えば、この時期の終わりごろにはロンドンでフットボール・アソシエーションが設立され、今日のサッカーが生まれた。
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統一ルールへの標準化が進みフェアプレーの精神が強調されていくようになるとともに、酒や遊びに気を取られるのではなく、マジメでちゃんとした青少年育成のための手段と考えられるようになっていく。
また国家も、軍事力増強のために“健康で力強くたくましい”男子を育てる手段として重視するようになっていったんだ。
いかがでしたでしょうか。
今回は、「工業化した国」と「工業化していない国」との間を、さまざまな物がやりとりされることで、現在の世界にもつながる「一体化した世界経済」がつくりあげられている時期でした。
次の時代(1870~1920年)では、ヨーロッパ諸国がアジア、アフリカに本格的に領土を獲得し、大戦争に発展するまでを描きながら、それがいかなる課題と対応を生み、現在の世界につながっていったのかを見ていきます。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊