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15.4.3 先進国の社会変容と環境破壊 世界史の教科書を最初から最後まで

女性の人権と地球の環境

1960年代以降、アメリカ合衆国では「フェミニズム」が盛んになった。当時のフェミニズム(第二波フェミニズム)の基本目標は、女性の権利を男性と「同じレベル」にまで引き上げること。1979年に国際連合の総会で女性差別撤廃条約が採択され、以後、世界各国では国内法が整備され(日本では男女雇用機会均等法)、批准されていった。


のち、1980年代以降は「女性」の置かれている状況がどのような社会的条件によって生み出されるかという問題意識や、女性の「あるべき姿」やカテゴリーの認識がどのようにして生み出され現実社会における関係につながっていくのかという点に、問題関心が移る(第三波フェミニズム)。その過程で、「闘うフェミニスト」というイメージがつくられていくことにもなった。

開発途上国における女性に対する援助も、単純に女性の負担を減らすだけではなく、その社会における女性の役割や意義を吟味した上での援助や、教育や医療を重視して主体性を育てる開発へとシフトしていった。

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また、地球環境問題への関心が高まったのも1960年代以降のことだ。
レイチェル=カーソンというアメリカ合衆国の女性科学者が、一般の人にも読める『沈黙の春』という本を通して、「農薬が生態系を破壊し、めぐりめぐって人間にも悪影響をおよぼす」と警告したことは、人間の活動のもつインパクトに対するイマジネーションをひろげ、環境保護への議論を活発化。

1972年にはスウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開かれ、UNEP(ユネップ、国連環境計画)がつくられることとなる。


その後、1986年に起きた現・ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故のように、環境問題が「国境を超える」という事実、そして人間の活動が「専門家にしかわからない、というかむしろ、専門家にすらわからないリスクを抱えている」(リスク社会論)という事実は、ますます現実味を帯びていくこととなる。

冷戦崩壊直後の1992年には、ブラジルのリオデジャネイロで「地球サミット」が開催され、環境問題が人類の共有する問題であることが国際社会の場で強く再確認された。


ここでは、1980年代から氷床や花粉分析になどによって科学的観測が進められていた「地球温暖化」問題をめぐる対応が協議され、温室効果ガスの排出国に具体的な削減義務を求める1995年の京都議定書へとつながった。


1980年代以降のアメリカ合衆国

ヴェトナム戦争終結から時間がたち、アメリカ社会が急速な変化を迎えていた1981年に就任した〈レーガン〉(任1981~1989)は、「強いアメリカ」を掲げ、ソ連との対決姿勢を強めた大統領だ。

しかし、当時のインフレ率は1980年に約14%に達し、1982年の失業率も約10%のピークに達していた。
膨れ上がった「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)を解消させるためにレーガンがとった政策は、「新自由主義」的な政策。その名も “レーガノミクス”だ。政府の支出を極力減らし、これまで規制をかけていたさまざまな制度を自由化することで、民間の活力を引き出そうとするプランだ。


結果としてインフレ率は1990年には約6%まで低下、1990年に失業率は5%台にまで落ち込んだ。
ただ、経済学者のクルーグマンによるとこの間に実質収入にほとんど変化はなく、貧困世帯数は増加し所得格差は拡大していていったことが明らかになっている。

この痛みを伴う改革の中からうまれたのは、コンピュータ分野での技術革新だ。

〈スティーブ=ジョブズ〉(1955~2011)が創業したアップルが、マッキントッシュというパーソナル=コンピューターを初めて発売したのは、1984年のことだった。


日本と西ヨーロッパの動向

レーガン大統領がレーガノミクスをやっていたころ、日本も〈中曽根〉首相も国の支出を減らして「小さい政府」を目指し、民間の経済活動を活性化させようとする新自由主義的な政策を進めていた。

例えば、医療負担の引き上げや、国鉄・電電公社・専売公社などの民営化をすすめていった。
オイル=ショック後の低成長に対応して、終身雇用制度と年功序列制度も揺らぎ、パート労働者が増え、1985年には労働者派遣法も成立させている。


オイル=ショックによって資源の価格が高くなったため、産油国は潤った。
しかし、原油のとれない発展途上国では債務が拡大したため、日本からの輸入額が減少。
日本は自動車や電化製品を、代わりにEC(ヨーロッパ共同体)やアメリカ合衆国へ輸出させていった。
これに先端技術の開発競争も加わって起きたのが貿易摩擦問題(日米貿易戦争)だ。
アメリカ合衆国は次第に閉鎖的な日本市場への批判を強めていき、日米構造協議(1989~90)、日米包括経済協議(1993)、年次改革要望書(1994~2008)などで政府に対する市場開放を要求するようになっていく。
そんな中、1989年にはベルリンの壁が崩壊し、1991年にソ連邦が解体され、米ソの冷戦は終結することとなった。


アメリカ合衆国から見た冷戦の終結


冷戦の終結を、アメリカからの目線でもう少し細かく見ておこう。

ソ連との経済や技術の格差がますます拡大していったアメリカ合衆国は、経済的な優位を背景に、ソ連との対立に終止符を打つための交渉を重ねていた。

その結果、1989年に就任した共和党の〈G.H.W.ブッシュ〉(ブッシュ父)大統領(任1989~1993)は、1989年12月2~3日に地中海のマルタ島で行われたマルタ会談をセッティング。
ソ連の〈ゴルバチョフ〉書記長とともに史上初めて共同で記者会見をおこない、事実上の「冷戦の終結」を宣言した。



これが一般に「冷戦の終結」とされるけれど、まだソ連は存続していることには注意しよう。



冷戦直後の湾岸戦争

一時的に “祝福ムード” となった世界に冷や水を浴びせたのが、「湾岸戦争」だ。

その発端は、1990年にイラクの〈フセイン〉大統領(1937~2006) が、クウェートを侵攻したこと。

1980~88年のイラン=イラク戦争により財政が悪化し、隣国クウェート国の油田を獲得しようとしたのだ。

)クウェート国はもともと遊牧民が定住していた地域に、1756年に成立した王朝が1914年にイギリスの保護国となり、1961年に独立。その当時からイラクとの国境紛争が続いていた。


国際連合の安全保障理事会が勧告を出したものの、国際社会は一致した行動がとれず、1991年に結果的にアメリカ合衆国を中心とする「多国籍軍」が介入するこになった。
ペルシア湾岸が戦場となったので、「湾岸戦争」というよ(英語では「湾の戦争」(ガルフ=ウォー))。

このときアメリカやイギリスは、イラク国内のクルド人(イラク、トルコ、イランの山岳地帯を中心に居住する少数民族)とシーア派の住民にフセイン政権に対する抵抗を呼びかけて支援した。
だが、クルド人やシーア派住民は結局〈フセイン〉政権により鎮圧されてしまう。


抵抗に失敗したクルド人は、その後、100万人以上の難民となってトルコやイランを目指したため、〈緒方貞子〉(おがたさだこ、任1991~2000)国連難民高等弁務官が、同事務所(UNHCR)の活動を指揮して、救援活動にあたっている。


)国連安保理はクルド人の保護を決議し、アメリカとイギリスが中心となってクルド人の帰国を助けた。
イラク北部にあるクルド人の分布地域には油田が多く立地し、アメリカ合衆国はクルド人を支援することで石油の利権をねらったと考えられている。

実際に「クルド人保護」のためにイラク北部には飛行禁止区域が設定され、南部のシーア派住民が多い地域も同様に飛行禁止区域に設定されている。湾岸戦争後も、国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き、大量破壊兵器や軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり、1993年にはアメリカ、フランス、イギリス、1998年にはアメリカとイギリスにより、ミサイル攻撃が実行に移された。

アメリカを中心とするイラクへの執拗な攻撃は、中東全体のアメリカに対する印象を悪化させる結果を生んだ。
つまり、アメリカ合衆国を、イスラーム教徒の世界に進出する“敵”とみなす言説が発展していくことになったのだ。


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