朝鮮戦争については、5.1.3を見てください。
オセアニアも、アメリカの「封じ込め」の舞台になる
サンフランシスコ講和条約に先立つ1951年9月1日、オーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は,太平洋安全保障条約(ANZUS,アンザス,アンザス条約) に署名した。
ANZUSはアンザスと読む。
ソ連を筆頭とする東側諸国の拡大に備えたほか、アメリカ合衆国が9月8日に日米安全保障条約を締結するため、日本の再・軍国主義化を恐れるオーストラリア、ニュージーランドを“説得”させる必要があったのだ。
なお,オセアニアの島々の多くは植民地の地位に留まるか,国際連盟の委任統治領を引き継いだ国際連合の「信託統治領」として統治され続けた。
西アジアもアメリカの「封じ込め」の対象に
戦後,パフレヴィー朝イラン王国で,民族主義的な姿勢を強めていた〈モサッデグ〉(モサデグ)首相。
1953年に,これを問題視したアメリカ合衆国の諜報機関CIAの介入により逮捕され,〈モハンマド=レザー=シャー=パフラヴィー〉(位1941~79)が新首相を任命した。イランに対するアメリカの介入は,公然の事実だ。
シャー(国王)はその“恩返し”にアメリカ合衆国を初めとする西側諸国に国内の石油利権を潤沢に供与。
1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになっていく。
日本もアメリカの「封じ込め」の対象に
1952年に主権を回復した日本は,米ソの冷戦構造の中でアメリカ側の体制に組み込まれていった。
50年代には,終戦直後の戦後改革によりいったん民主的になった制度を,もう一度国家権力を強化した制度に戻そうとする「逆コース」の動きが起きる。
軍備を禁じる日本国憲法を改憲しようとする勢力(護憲派。右派)に対し,日本国憲法を守ろうとする勢力(改憲派。左派)の勢力が対立。
アメリカ合衆国の占領下につくられた憲法を改めようとする勢力と,それを守ろうとする勢力との対立は,そっくりそのままアメリカ派 vs ソ連派の対立でもあった。
1955年に前者(右派)の立場の政党がくっついて「自由民主党」となり,アメリカ合衆国の軍事力によって日本の安全を保障しながら,外国からの投資と援助を受けつつ経済成長を図ろうとする道を選択した。
しかし,左派の政党(日本共産党と日本社会党など)も寄せ集めても憲法を改正する議席数には達しなかったため(右派の約半分),日本の再軍備を憲法に規定する動きは持ち越されることになった。
一時期,核爆弾への反対運動が広がった
1954年のマーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)のビキニ環礁(◆世界文化遺産「ビキニ環礁―核実験場となった海」,2010)におけるアメリカ合衆国の水爆実験の被害を受けた第五福竜丸事件は,反核運動の盛り上がるきっかけとなる。
ビキニ環礁では計23回の核実験のために住民の強制退去が行われ,現在でも居住できない島もある。
水素爆弾「ブラボー」によりできた直径2kmのブラボー=クレーターも残されている。
1955年に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催され,
同年には哲学者〈ラッセル〉(1872~1970)と科学者〈アインシュタイン〉(1879~1955,署名後,約1週間後に死去)が核の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言が発表された。
ユダヤ人であるアインシュタインは,亡命先のアメリカ合衆国大統領に,自身の理論を実用化した「核爆弾の開発によるドイツ攻撃」を進言した科学者でもある。
1957年にはカナダで科学者〈湯川秀樹〉(1907~81),〈朝永振一郎〉(ともながしんいちろう,1906~79),〈ボルン〉(1882~1970)らによりパグウォッシュ会議が開かれ核兵器廃絶を訴えた。
この会長を務めたイギリスの物理学者〈ロートブラット〉(1908~2005)は1995年にパグウォッシュ会議とともにノーベル平和賞を受賞している。
しかし,核爆弾に対する世界的な反対運動は,やがて政財界を中心とする「核の平和利用」の動きに取って代わられていくことになった。
すでに1953年にアメリカ合衆国の〈アイゼンハワー〉大統領(任1953〜1961年)が,「平和のための原子力」と題して演説。
1955年には原子力基本法が制定され,1956年に〈正力松太郎〉(1885〜1969年)が同年設立の原子力委員会に就任した。
「核兵器」は未来のクリーンなエネルギーだという旗印のもと,1960年代以降,日本にもアメリカ製の原子力発電所が設置されていくことになる。