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15.3.2 アフリカ諸国の独立と苦悩 世界史の教科書を最初から最後まで

サハラ以北の北アフリカでは、1951年にすでにリビアが敗戦国のイタリアから独立。
56年にはイギリスとエジプトの支配下にあったスーダン、そしてフランスの支配下にあったモロッコチュニジアが独立した

しかしアルジェリアが独立するには、フランスと厳しい戦争を経る必要があった(アルジェリア独立戦争)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び、フランス大統領〈ド=ゴール〉が第五共和政を成立させて62年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込んだ【←戻る】15.2.3 西欧・日本の経済復興)。

なおサハラ以南のアフリカ(サハラ砂漠より南に位置するアフリカのこと。「ブラック・アフリカ」とも呼ぶ)では、1957年にンクルマ(エンクルマ、1909~72。在任1960~66) がガーナをイギリスからの独立に導いた。1958年にはギニアが独立している


資料 ガーナ独立式典でのンクルマの演説(1957年3月6日)

ガーナの皆さん。戦いはやっと終わりました。皆さんの愛する国ガーナはここに永久に自由になりました。……今日そして今後、世界に新しいアフリカ人が存在します。この新しいアフリカ人は自己の戦いをする準備、黒人は自分の問題を処理することができる用意が最終的にできています。…私たちはアフリカ人自身のパーソナリティとアイデンティティを創造しようとしています。……私たちは闘ってきました。さらにアフリカの他の国々を解放する闘争に再び立ち上がりましょう。なぜなら、私たちの独立は、アフリカ大陸の全面的な解放と結びつかなければ、意味がないからです。
(出典:Kwame Nkrumah, I Speak of Freedom (Westport, Connecticut, 1976), pp.106-107, 川端正久・訳『世界史史料11』岩波書店、2012年、183頁)

 こんにちの新植民地主義は、帝国主義の最後の、そしてひょっとすると最も危険な段階を表わしている。…
 新植民地主義の本質は、それに従属する国家が、理論的には独立し、外径的には国際的な主権を有していることである。しかし、現実には、その経済体制と政策は外部から指図されている。…
 新植民地主義の結果、外国資本は世界の低開発地域の発展よりも搾取に使われている。新植民地主義の下での投資は、世界の富裕国と貧困国の格差を縮小するよりもむしろ拡大している。
 新植民地主義に反対する闘争は、低開発国に投資された先進国の資本を排除することを目的としているのではない。その目的は、先進国の金融権力が低開発国を疲弊させることに使われるのを防ぐことである。

ンクルマ『新植民地主義—帝国主義の最後の段階』1965年


出典:K・エンクルマ著「アフリカにおける階級闘争」」、『法学研究』54(1)、155-159頁。


史料 ンクルマの演説(1964年)
七力年計画が完成された暁に、ガーナは高度に組織され、効率 的な農工業プログラムにもとづく近代国家の入口に到達するだろ う。この計画での私たちの目的は、ガーナにおける社会主義国家 の建設である。しかし工業化が達成されない限り、社会主義はス ローガンに留まろう。私たちはすべての目的を完遂し、わが国は 幸福で進歩的な繁栄する先進的国民となると私は確信する。経済 の生産的基礎は革命され、ガーナの科学技術と生産性の水準は、 近代的基準に近づくだろう。……計画期間が終ったときのガーナ の姿を、私は心の目でいま見ることができる。強力で雄々しい経済、快活で繁栄する農業と工業をもつ国家、人民の必要に奉仕す る国民を、私は見る。

「エンクルマは工業化した繁栄する先進的ガーナ国民を夢みた。し かも彼の夢は、ガーナに留まらず、広がって全アフリカ大陸に及ん だ。彼は、大陸的規模での社会主義的計画の必要を力説し、大陸的 に統合された輸送体系、統一通貨、統一市場、統一的投資、統一的 防衛計画、統一的軍隊の実現を訴えた。彼は諸国家の主権譲渡によ る完全なアフリカの政治的統合、「アフリカ合衆国」を要求した。」「彼 は単一の「アフリカ国民」の創出を望んだので あり、彼の思想の本質は、文字通り、「アフリカ・ナショナリズム」 であった。エンクルマイズムは社会主義 とパンアフリカニズムの二つから成ったが、そのうちの主な要素は パンアフリカニズムであった。エンクルマは、アメリカとソ連が強 大になりえたのは大陸国家であったからであり、ヨーロッパと南ア メリカが繁栄しないのは大陸的統一を欠くからだ、と論じた。」(山口 圭介「エンクルマとニエレレ-国民形成の思想と行動を中心に」『第三世界政治家研究』57、1977年、99-119頁)

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アフリカの年

ンクルマのよびかけた「さらにアフリカの他の国々を解放する闘争」は、1960年に花開く。この年には、17カ国が独立を達成した「アフリカの年」と呼ばれた。

これら独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立。


数の力でアフリカの地位を高めようとしたのだ。
本部はエチオピアの首都アディスアベバに置かれた。


OAU諸国の多くは、ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず、第三勢力として活動しようとしたものの、1960年にコンゴ動乱(銅資源の眠るコンゴの独立後、ベルギーが反政府勢力を支援し、内戦となった)が起きるなど、天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたない。


先ほど紹介したガーナ独立の父ンクルマ(1960年に大統領に就任)も、社会主義を掲げて国有化制作を実行したために、アメリカに目をつけられ、1966年2月に軍部・警察によるクーデタで失脚した(CIAが関与していたことを報じるニューヨークタイムズの記事)。その後ンクルマはギニアに亡命し、1972年にルーマニアのブカレストで亡くなった。


帝国主義時代に民族分布を無視して勝手にひかれた国境線が経済的な争いと結びつき、民族紛争も相次いだ。


「世界経済というゲームのルールは、北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは、最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから、いくらがんばっても南側(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」

このような主張を、従属理論という。
この考え方は、70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~2019年)による「世界システム論」に発展


「北側(中核)が中心になって、南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれ、それが世界中に広がった。このしくみにおいては、北側は経済発展するが、南側はいつまでも低開発(underdevelopment)の状態にとどまってしまう」というものだ。

特にアフリカは、植民地時代のモノカルチャー制度が残り、環境が破壊され、産業も未発達のまま。
さらにさかのぼれば、大西洋の奴隷貿易によって、労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも、傷跡として残っていると考えられた。


こうした構造を是正するため、国連が動く。
1964年に南側諸国が主導して国連貿易開発会議(UNCTAD、アンクタッド)が設立され、南北格差を是正するため不平等な国際分業体制を改める動きがはじまった。


なお、1975年には、ポルトガルで独裁政権が終わったことから、モザンビーク、アンゴラ、サントメ=プリンシペ、ギニアビサウがポルトガルから独立している


アフリカでは、「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために、民族紛争が起きている」という説明がよくなされる。
しかし、複数の民族が分布しているからといって、その国で常に紛争が起きているわけではない。

紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ、政権による政策決定の誤り、冷戦対立の構図、資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など、さまざまな要因があることに注意しなければならない。



ちなみに、エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際、水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり

UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で世界遺産条約が締結され、1978年には初めての世界遺産の認定が行われた。
人類誕生の地 アフリカにいて、人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の “共有財産”として守っていこうという動きが、始まったのだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊