アケメネス朝の世界観 "今"と"過去"をつなぐ世界史のまとめ(6) 前600〜前400年
よみがえるアケメネス朝(1971年)
1971年、イランに世界各国から王族をはじめとする賓客を招き、盛大な式典が開かれた。
前550年から前330年までの間、古代オリエントに君臨した巨大な帝国、アケメネス朝を記念し、イラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィーの開いたものだ。
式典のとりおこなわれたペルセポリスという旧都には、かつてアケメネス朝の国王が信仰していた神々をまつる祭壇や王宮の跡がある。
そのなかにある謁見の間には、支配された各地の民族が、国王に貢物を差し出す様子をあらわしたレリーフがのこされている。そのなかに登場する民族や動物をみると、アケメネス朝がいかに広いエリアを支配していたかが見えてくる。
レリーフのなかの動物たち(紀元前6世紀)
たとえば、こちら。
2つのコブをもつフタコブラクダを献上しているのは、現在のアフガニスタンにあるバクトリア人だ。西アジアではヒトコブラクダが主流だから、珍しい者だったのだろう。
また、こちらはエチオピア人の一行である。
彼らが貢物として差し出しているのは、キリンよりも、やや首が短い動物だ。これはキリン、あるいはオカピではないかと考えられている。
レリーフから伝わるのは、世界の果ての多様な人々や珍奇な動物をも包みこもうとするアケメネス朝君主の普遍的な意識だ。
古代の人権憲章?(紀元前6世紀)
アケメネス朝の統治手法を伝える史料は、数が限られている。このうち最も有名なものの一つが「キュロスの円筒形碑文」だ。パフラヴィー朝の王が「史上最初の人権憲章」と誇ったこの遺物は、メソポタミアのバビロンのマルドゥク神殿から出土した。
この碑文のなかで、バビロンを征服した国王キュロスは、住民の信仰する神々を保護したと讃えられている。
バビロンで生活していたユダヤ人がパレスチナに帰ることをゆるしたことも、同様に『旧約聖書』に記され、「救世主」としてたたえられていることは周知の通りだ。
帝国の思考法
高校世界史ではこうした統治の性格を引き合いに出して、アケメネス朝の統治は「寛容」だったと、いわば紋切り型のように表現されてきた。
しかし、アケメネス朝がすべての民族に対して、文字通り「寛容」であったわけではない。
先ほどの印章も、国王キュロスによるセルフ・プロデュースという側面が強い。
またユダヤ人のバビロンへの移住は「バビロン捕囚」と伝えられ、苛烈をきわめたものと説明されがちだが、なにも彼らがバビロンで牢屋に入れ、ひどい扱いをされたりしていたわけではない。『旧約聖書』をみれば、ネヘミアのようにアケメネス朝に役人として仕える者もいたのだ(阿部拓児2022: 50-51頁)。
反乱が起これば鎮圧に動くし、支配を強制することもあった。
「寛容だった」という表現ですべてを片付けるのではなく、その背後にある、ペルシア王の持っていた、次のような世界観を見とることが大切だ。
この世界には「真」と「偽」があって、「偽」を取り除くことで、みずからが「真」であることを証明することができる。
こうした世界観は、20世紀以降にもしばしばお目見えする次のような発想と、どの程度似ていて、あるいはどの点で異なるといえるのだろうか?
支配の一方的な押し付けは長続きしない。それもまた、歴史の教えるところだ。アケメネス朝の王たちは、支配地域の文化的・社会的な文脈に沿って、自分自身の権威を表現しようと腐心していたことがうかがえる(阿部拓児2022: 70頁)。
とはいえ、地上すべての支配者であるペルシア王が、みずからが「真」であることを証明するために戦争がひきおこされることもあった。ギリシア勢力を「偽」とみなし、その排除をねらったペルシア戦争が典型例だ(阿部拓児2022: 133-134頁)。
歴史上、多くの民族を支配下に置く帝国が、人々をどのような論理によって包摂していたか。もしかするとアケメネス朝にも、それなりの知恵があったのかもしれない。そうしたことを踏まえて、現代の「帝国」の指導者の論理を点検してみることもできるだろう。
参考文献
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊