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14.3.7 イスラーム諸国の動向 世界史の教科書を最初から最後まで


第一次世界大戦の勃発が影響を与えたのは、トルコだけじゃない。


◯エジプト


1914年以来イギリスの保護国扱いとなっていたエジプトでは、第一次世界大戦が終わるとワフド党を中心に独立を求めるムーブメントが起きた。
1922年にはイギリスは保護権を放棄。
エジプト王国(1922〜1953年)が成立した。

だが、イギリスはいぜんとして地中海とインド洋を結ぶスエズ運河を手放そうとはしない。イギリスが「保護権は手放した」といっても、さまざまな特権はなおもイギリス握られたままだったのだ。

エジプトの知識人がイギリス支配に抗議する中、1936年にエジプトはイギリスと同盟条約を結んで、その地位を改善。

それでもなお、イギリスはスエズ運河地帯の軍隊を撤退させることはなかったんだよ。

イギリスはそれほどまでに、スエズ運河を世界戦略の要と位置付けていたわけだ。




◯アフガニスタン


アフガニスタンはイギリスの保護国下にあったけれど、1919年のイギリスとの戦争(第3次アフガン戦争)に勝利すると完全に独立。

憲法が制定され立憲君主制となり、国が主導した近代化がスタートしている。

しかし、中央アジアとの結びつきが深く、これまで明確な国境線のなかったアフガニスタン。
山がちで乾燥した国土では、多数の遊牧民グループが定期的に移動を続け、しばしば農耕民と対立を繰り返した。
近代的な国づくりは、しばしば伝統的な氏族の絆と衝突。

また、全土に鉄道が張り巡らされたインドとは異なり、まったくといっていいほど鉄道が敷設されなかったことも、のちのち開発に手こずる要因となるよ。




◯イラン


カージャール朝のイランは、第一次世界大戦中に「中立です」と宣言していたのに、イギリスとロシアの介入を受けていた。
イギリスにとってイランは最重要植民地インドとアジアへの貿易ルートを守るため、ロシアにとっては南下とインド洋への進出のため、とっても重要なエリアだったんだ。


第一次世界大戦に自主権を回復したものの、その後レザー=ハーン(1878〜1944年、在位1925〜41年)がクーデタをおこし、1925年にカージャール朝を滅ぼしてパフレヴィー朝(1925〜79年)を建国。
みずからをシャー(国王)と称した。

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シャーというのは、古代のアケメネス朝やササン朝の皇帝の称号に用いられていた呼び名だ。
パフレヴィー朝は、これに限らず、新しい国をつくるのに、イラン高原の歴史的な王朝の権威をしばしば持ち出したことで知られるよ。


レザーが見本としたのは、ちょうどヨーロッパを手本に近代化をすすめていたトルコ。

1935年には、これまでの「ペルシア」という国号を、「イラン」にあらためている。
ペルシアは自称ではなく外部の人々からの呼び名。代わって、イランは「アーリア」という高貴とされた古代の民族アーリア人を指す言葉で、イラン民族が“優秀”で古いルーツを持つ民族だということを示すねらいがあったのだ。


しかし、国内に眠る石油の利権を、イギリスはそう簡単に手放そうとはしない。

その後もイギリスはイランの政治や経済に介入し続けることになるよ。



◯アラビア半島


アラビア半島では、第一次世界大戦後にはイギリスの影響力がアップ。
かつての大国ワッハーブ王国を復活させようと、リヤドを中心にネジド王国(1902〜1926年)を建国していたイブン=サウード(1880〜1953)は「イギリスのサポートを得よう」と決意。

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イブン=サウード


まずアラビア半島を統一するために、アラビア半島西部ヒジャーズ地方を治めるヒジャーズ王国のフサイン(フセイン、1852頃〜1931年、在位1916〜24)を破り、

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ヒジャーズ地方とネジド地方を合わせてヒジャーズ=ネジド王国(1926〜1932年)を建国。

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その後、1932年にアラビア半島の大部分を統一して、“サウードの”アラビア(つまり、サウディアラビア王国)に発展させたのだ。




フセインはハーシム家に属し、ムハンマドの子孫にあたる、とっても高貴な存在だったことから、第一次世界大戦中に、イギリスから「アラブ人統一は君に任せたよ」というお墨付きをもらっていた(フサイン=マクマホン協定)。
けれども、大戦後のイギリスは、アラビア半島の盟主をイブン=サウードに鞍替え。

のちに、フサインの三男はイラク王(ファイサル1世)として即位、さらに長男はヨルダン(当時の名称はトランスヨルダン)王(アブドゥッラー1世)として即位することに。現在でも王家の続いているヨルダンの正式名称が「ヨルダンハシミテ(ハーシム家の)王国」というのは、王がハーシム家だからだ。



こうしてアラブ人のエリアは、イブン家とハーシム家の2つに分断されてしまった。イギリスによるアラブの“仲間割れ作戦”といえるね。



なお、現在のカタール、

クウェート、

バーレーン、

アラブ首長国連邦、

オマーン、

イエメン

周辺にあたるエリアは、主に19世紀以降、イギリスが土地の支配者と個々に条約を結ぶことでおさえていたところだ。

ヨーロッパからアジアに向かう物流ルートの基地として重視したんだね。

これらの国は、20世紀後半にかけて、イギリスの「帝国」支配が緩むと次々に独立していくことになる。
アラビア半島沿岸部に小さな国がボコボコと分布しているのは、こうした事情があるんだよ。

1970年以降オイルマネーで急成長し、現在は高層ビルが立ち並ぶ金融都市エリアになっているこうした国々も、当時はまだまだわびしい状況にあった。



◯「委任統治領」とされた旧・オスマン帝国領


第一次世界大戦後、オスマン帝国の領土はイギリスとフランスが「地元の人に代わって、準備が整うまでの間、統治する」ということになった。
「委任統治領」というけれど、なんだか「植民地」を言い換えているだけのような気もするね(まあ、そういうこと)。

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現在のシリア(1)、レバノン(2)はフランスの委任統治領。パレスチナ(現イスラエル/パレスチナ)(3)、トランスヨルダン(現ヨルダン)(4)、イラク(5)はイギリスの委任統治領とされた。


その後、以下のように次第に独立が認められるようになっていった。

イギリスの委任統治領だったイラク は1932年にイラク王国として独立。
イギリスの委任統治領だったトランスヨルダンも、ヨルダン王国として独立。
この2カ国の王は、さっき見た通り、実はイギリスが第一次世界大戦中に「アラブ人の国をつくってあげる」と約束したフサインの息子たちだ。

フランスの委任統治領だったシリアでは、1941年にキリスト教徒の多かったレバノンが1943年に分離する形で独立。シリアも1943年に独立した。
この地域では、ヨーロッパ式の議会など政治の制度が導入されたけれど、単純に「多数決」を導入してしまうと、多数の宗教・宗派ごとの争いが起こってしまう。
そこでバランスをとる独特の制度が導入され、政治家も強権的な手法をとることが多くなっていくよ。



さて、もっとも問題なのはイギリスの委任統治領とされたパレスチナだ。
1915年にフサイン=マクマホン協定を結び、パレスチナを含む西アジアにアラブ人の国をつくることを約束していたイギリス外相は、一方で1917年にはユダヤ人の援助を得るために、パレスチナにユダヤ人の国(ナショナル=ホーム)をつくることを同時に表明(バルフォア宣言)。

第一次世界大戦に協力してもらおうというその場しのぎの外交が、のちに「パレスチナ問題」という、21世紀になってもまだまだ解決できない大きな災いをもたらすことになる。


「パレスチナをめぐって、ユダヤ教徒とイスラーム教徒という二つの一神教徒が、数千年にわたって争い、ユダヤ教徒側をキリスト教徒の国 アメリカ合衆国がサポートしている。これは宗教戦争だ


このように説明されると、「なるほど、太古の昔から一神教徒たちは争っていたんだな」と思うかもしれない。

でも、事態はそんなに単純なものじゃない。

すくなくとも、パレスチナの主権をめぐるユダヤ人とアラブ人間の衝突は、第一次世界大戦中のイギリスによる「秘密外交」にルーツがある。

数千年の昔から続く争いというわけではないんだ。


こうして、オスマン帝国の時代には共存していた両者の住む西アジア地域に、ヨーロッパ式の「主権国家」の仕組みが拡大されたことで、現代にまで続く深刻な問題が次々に起こっていくことになる。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊