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世界史の教科書を最初から最後まで 1.2.8 ポリスの変容

ペルシア戦争を勝利に導いたアテネであったが、酔いしれるばかりで、「勝って兜の緒を締める」ということにはならなかった。

まずデロス同盟という“ペルシア対策”のグループを組織し、周りのポリスを従えて貢納を要求した。
「デロス」というのは、同盟の金庫の置かれていた島。


集めた富は加盟ポリスみんなのために使うといっておきながら、パルテノン神殿の修復といったアテネの整備などに流用。


アテネはまるでアテネ「帝国」の首都のような様相を呈していく。

それに対しスパルタはアテネに対抗するポリスを集め「ペロポネソス同盟」を組織。

こうして前431年(今から2400年ほど前)アテネ中心のデロス同盟と、スパルタ中心のペロポネソス同盟との全面対決に突入した。
ほとんどのポリスが、アテネ側かスパルタ側に立って戦うことに。
これをペロポネソス戦争という。

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アテネは当初戦いを有利に進めたけれど、病気の流行でペリクレス将軍が亡くなると形勢は逆転。
アケメネス朝ペルシアも、アテネのライバル ポリスであったスパルタに接近し、アテネは東西から“挟み撃ち”される形となり、アテネは敗れた。


しかしその後、アイオリス方言を話すギリシア人のポリステーベ(テーバイ)という第三勢力が出現。エパメイノンダスという将軍が右側が弱点となりやすい密集隊形(ファランクス)を改良し、左側に重心を移動させる新しい陣形によっていきなり台頭すると、スパルタを一時圧倒する。

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しかしアテネも負けてはいられない。なんとか民主政を立て直そうとするけれど、アケメネス朝ペルシアがギリシア人のポリス同士を仲違いさせようとジャマしてくるのは止められない。

しだいにギリシアのポリスの持っていた「強み」が崩壊していくことになった。

ポリスの市民は基本的に自分の持分地(クレーロス)を持っていたよね。
それを経済的な基盤にすることで武具を買い、兵士として国を守っていたわけだ。
「自分のポリスは自分で守る」という原則である。

しかし相次ぐ戦乱によって土地を失う市民が続出。土地がなければ収入も得られず、お金で雇われる兵隊(傭兵)が使われるようになっていく。
そうなれば当然「みんなでポリスを守ろう!」という団結は失われる。

王様がいないのに団結できる。それこそがポリスの強みだったのにね。


こうしてギリシア世界の主導権は、ポリスをつくるギリシア人ではなく、ポリスをつくらず王による支配を続けていた北方のギリシア人へと移っていった。
その地はマケドニア

現在の「北マケドニア」(2019年に「マケドニア」から「マケドニア」に正式に国名を変更した)という国との直接的な関係はなく、当時のマケドニア王国は、現在のギリシア寄りに立地していた。

首都はペラという都市にある。



フィリッポス2世という王様のもとで急速に軍事力をアップさせ、前338年(今から2350年ほど前)に、ついにギリシャのポリスをカイロネイアの戦いで破ってしまった。
王はスパルタを除く全ポリスをコリントス同盟(ヘラス同盟)というグループにまとめて支配することに。こうしてギリシアにおけるポリスの時代は幕を閉じたんだ。


ちなみに、2019年に「マケドニア」が「マケドニア」に国名変更したことを知っているかな?

もともとユーゴスラビアの一部だった「北マケドニア」が「マケドニア」を名乗って独立するときに、「マケドニア王国による侵略の過去を想起させる」として、ギリシア側から「マケドニア」という国名自体に対する反発があったんだ。
ギリシア側にもマケドニアという地域があって、どちらかというと古代マケドニア王国のエリアのほとんどはギリシア側にあった。

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というわけでこの国名論争は国連も巻き込んで大きな論争になっていたんだけれど、2019年になってマケドニアが「北マケドニア」に正式に国名変更することで決着がついた。

2300年の時を経て、いまだにマケドニア王国時代の影響が現代に及んでいるわけなのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊