11.1.6 1848年革命 世界史の教科書を最初から最後まで
19世紀前半、イギリスにつづきフランスでも産業革命が本格化。
政権と結びついて鉄道などさまざまなプロジェクトに投資したロスチャイルド家のジェームス(1792〜1868年)
プロイセンなどのドイツ人の領邦の国ぐにでも、改革が進められた。各領邦は競うようにして鉄道を敷いたり、運河を掘ったりし、石炭や鉄鉱石の産地と工業地帯を結んでいった。
しかし、イギリスを模範にして突如として現れた産業社会は、”欠陥“だらけ。
農村から都市に仕事を求めて流れ込んだはいいものの、労働者などの下層の民衆や貧しい農民に仕事の機会はじゅうぶんになく、「産業革命が進んだのにもかかわらず、人々はどんどんまずしくなっていく」という深刻な社会問題が広がった(大衆貧困)。
1840年代後半になると、作物の凶作や「不況」(ふきょう)という経済現象が起きるようになり、「このような体制を変えなければ」という思いが徐々に広がっていた。
なのにフランスの七月王政の王ルイ=フィリップはといえば、「我関せず」。
銀行家などの一部の富裕層に富が集まり、選挙権も多額の納税をしている人に限られていた。
中小規模の資本家や民衆のあいだには「自分たちにも選挙権を」という思いが強まったのだけれど、政府はこれを弾圧しようとしたため、1848年2月、パリで革命がおこった。
二月革命だ。
あっという間に、国王ルイ=フィリップはイギリスに亡命。
代わって共和政の臨時政府が立てられた。これを第二共和政という。
臨時政府には、なんと社会主義者のルイ=ブランや労働者の代表も加わった。
しかし有産市民層や農民は「彼らが政権についたら平等な世の中をめざし、自分たちの財産をとっちゃうんじゃないか」という不安を抱くように。
1848年4月に、成年男性なら誰でも投票できる選挙がおこなわれ、社会主義者は大敗する。
代わって、「社会主義的な政策はやめよう。ただし王政はやめよう」という、マイルドな共和政(穏健共和政)の政府が建てられた。
この結果や、政府の”失策“(失業者のための国立作業場の廃止)に”逆ギレ“したパリの労働者は「パンか銃弾か! 自由か死か!」をスローガンに結集し、6月23日からパリの市街各地にバリケードが築かれ、政府側の舞台との流血の惨事となった。これを六月蜂起といい、6月26日には武力で完全に鎮圧されることとなった。
パリの路上に、労働者たちの亡き骸(なきがら)がのこされた。
六月暴動は国民の不安を掻き立て、代わって保守派が台頭。まず支持を集めたのは、六月暴動鎮圧の立役者、軍人のカヴェニャックだ。カヴェニャックは鎮圧後に政府主席に就任し、大統領選挙にも立候補するのだが、蓋を開けてみると150万票を得票したのに対し、550万票をかっさらったのはネームバリューを盾に支持をたくみに集めたルイ=ボナパルトという人物だった。
そう、あのナポレオンの甥(おい)(1808〜73年)である。
***
ナポレオン3世の第二帝政
オランダ国王に即位したナポレオンの弟ルイの息子である。
根強い人気を持つ「ナポレオン」という抜群のブランドを持っていた彼は、1851年にクーデタをおこして独裁権をにぎることに成功。1852年に国民投票によって「皇帝」に即位。ナポレオン3世を称し、第二帝政を開始することとなった。
彼の政治のやり方は、社会主義者サン=シモン(1760〜1825年)の思想を受け継ぐ学者の影響を受けている。フランスの産業革命をさらに一層推し進め、社会全体に還元しようとする政策である。そして、それを実現させるために、アジア、アフリカ、アメリカ大陸の植民地に、武力でどんどん拡大していった。これについては、のちのち確認することにしよう。
***
二月革命の影響
ウィーンの三月革命:メッテルニヒの失脚
さて、ここでパリの二月革命がヨーロッパ諸国にどんな影響を与えたのか、ざっと確認しておくことにしたいい。
オーストリアのウィーンでは3月に放棄が起き、これまで「民族運動反対! 自由主義反対!」を押し付けてきたメッテルニヒが失脚する。これをウィーンの三月革命という。
ベルリンの三月革命
さらにつづいて同じ3月にドイツのベルリンでも民衆が放棄。
プロイセン国王はこの動きに譲歩して、自由主義的な内閣を組織することを認めた。
***
チェコとハンガリーの民族運動
多数の民族を抱える帝国でもあったオーストリアでは、メッテルニヒが失脚したことで、さまざまな民族は「これをチャンスに自分たち民族の権利を認める体制をつくってもらおう」と運動を活発化。
たとえば、オーストリアとロシアの支配に対抗してパラツキー(1798〜1876年)が組織したスラブ民族会議を中心とするチェコ人のベーメンが挙げられる。
パラツキーは1848年のフランクフルト国民会議にも招かれたけれど、「わたしはチェコ人だから、ドイツの統一には参加しない」と、これを拒絶した。
もうひとつ、コッシュート(1802〜1894年)に率いられたマジャール人のハンガリーでも、ナショナリズムが盛り上がった。
そしてイタリアで民族運動がもりあがっていった。この状況のことを「諸国民の春」と呼ばれたよ。「1848年革命」と呼ぶこともある。
ただ、結果として自由主義的な政府や、民族ごとにまとまった国ができたとは限らなかった。
***
フランクフルト国民議会と「ドイツ」のゆくえ
たとえばドイツ地域での動きをみてみよう。
1848年3月当時、ヨーロッパの中央部には「ドイツ」という国家は存在せず、ウィーン議定書によって成立した「ドイツ連邦」というゆるやかな国家連合があるのみだった。
「ドイツ連邦」というのは、35のドイツ人の君主国、4つのドイツ人の都市からなる国家連合だったが、当時のドイツの知識人の間には、「われわれもフランスのように統一されたドイツ人の国家をつくるべきではないか」という意見が熱を帯びた。
こうしたなかで、ドイツで三月革命がおきる。
ドイツ地域にある多数の領邦(プロイセン、オーストリア以下、35の君主国)の議員や元議員など約500名が、フランクフルトのパウロ教会にあつまり、統一ドイツ国家の憲法作成にとりかかったのだ。これはフランクフルト国民議会(1848〜49年)とも呼ばれる。
彼らの主張は、どのようなものだったのだろうか。
まず会議の始まる直前に、民主派のかかげる人物の出した提案をみてみよう。
民主派によるこの提案には、フランス革命(→上記のなかでは一や四)、フランスの社会主義(→一二)、アメリカ独立革命(→一五)の影響がみられる。
こうした民主的な主張を受け入れない立場をとる保守的な君主国もあり、議論は紛糾。さらに以下のような難しい問題が争点となった。
激論の末、1849年3月28日に公表された「ドイツ帝国憲法(フランクフルト憲法)」は以下のような内容だ。
→「ドイツ連邦」にはオーストリアも含まれるから、憲法ではオーストリアも含むことを想定していたことがわかる。
世襲皇帝制にもとづくものとはいえ、民主派や自由主義的な勢力を含む人々の会議で決定された憲法に、プロイセン国王は懸念を抱いた。いったん組織した自由主義内閣をしりぞけ、さらにはフランクフルト国民議会が提案した「プロイセン国王をドイツ皇帝にするプラン」も拒否されてしまう。
***
オーストリアはドイツ統一に加わらず
オーストリアでも、三月革命後、フランクフルトで進行していた大ドイツ主義と小ドイツ主義の議論の影響により、対立が深まっていた。
もし、かつての神聖ローマ帝国の領域を「ドイツ国家」に含めるということになれば、神聖ローマ帝国の領域ではないオーストリアの部分(たとえばハンガリー)は、「ドイツ国家」から切り離されてしまう。
オーストリアは神聖ローマ帝国の領域だったところと、領域外のエリア(たとえばハンガリー)にまたがっていたため、大ドイツ主義をとると、国家が分裂してしまうことになる。
大ドイツ主義をとろうという人々にとっては、ハンガリーは非ドイツ人の地域なので、眼中にはなかった。
だが、1848年10月にオーストリア政府がハンガリーでの民族運動鎮圧のためにウィーンの部隊を投入しようとしたために、蜂起(「10月革命」)が勃発。
オーストリア皇帝軍によりウィーンの蜂起は鎮圧され、革命ムードは一気に反革命へと転換することになった。
オーストリアはその後、オーストリアを二つに引き裂くおそれのある「大ドイツ主義」を明確に否定。
1848年11月に新たに就任したオーストリア首相が表明した立場はこうだ。
これにより「大ドイツ主義」の可能性は消え去り、ドイツでは「小ドイツ主義」によるドイツ国家の統一が現実味を帯びることとなった。
なお、オーストリアでは1850年代には議会の権限が奪いとられていったものの(オーストリアの「新絶対主義」)、ウィーンは他民族の居住する国際色豊かな都市として、文化の中心となっていった。。
***
西ヨーロッパと東ヨーロッパ
こうしてウィーン体制は崩壊したわけだけれど、のきなみ自由主義・民主主義が発展していった西ヨーロッパにくらべ、東ヨーロッパではなかなか厳しい状況にあった。
民主主義は”数“が勝負なわけだけれど、さまざまな民族が入り乱れ統一が不十分な地域の多い東ヨーロッパでは、ひとたび「統一国家」をつくろうとしても、領内のさまざまな民族がそれに反発する。
統一しなければ、産業社会を支えるだけの経済力も持てないし、産業社会がつくれなければ、これからの時代を生き抜くことはできない。
1848年以降、西ヨーロッパと東ヨーロッパ(東ヨーロッパをさらに「中央ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」に分ける見方もある)は、さまざまな問題を抱えながら、別々の道を歩むこととなっていく。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊