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15.3.4 キューバ危機と平和共存への転換 世界史の教科書を最初から最後まで

多極化する世界、破局手前のキューバ危機

15年前の第二次世界大戦終了時には思いもよらなかった構図となっていた国際社会。

そんな中、テレビ中継による大統領候補同士の公開討論で、“頼もしさ”や“新しさ”をアピールしたことで支持率を上げたのは、民主党から出馬した若手の〈ケネディ〉(1917~63、在任1961~63) だった。




若手と言っても、アイルランド移民としてアメリカに渡り財を成した〈ケネディ〉家は名門中の名門。
彼は「ニューフロンティア」政策を旗印に、史上最年少、そして史上初めてのアイルランド系のカトリック教徒として大統領に就任した。

〈ケネディ〉政権の経済学専門家たちは、発展途上国の社会主義化を防ぐためには、〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで、その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと考えた。
いったん工業化に向けて「離陸」(take-off)してしまえば、あとは適切にサポートすることで社会主義国になるのを防ぐことができるというわけだ
このプロジェクトを「進歩のための同盟」(アライアンス=フォー=プログレス)という。

例えば、1961年にはOECD(オーイーシーディー、経済協力開発機構)が立ち上げられ、先進国による発展途上国の援助により、独立した旧植民地がソ連側のいうことをきかないよう、つなぎとめようとした
これはかつてのマーシャル=プラン受け入れ機関であるOEEC(ヨーロッパ経済協力開発機構)にアメリカ合衆国とカナダが加わったもの。本部はパリに置かれ、“先進国クラブ”ともいわれる。


しかし、62年にはソ連のミサイル基地が、合衆国と目と鼻の先にあるキューバに設置されていることが判明。ソ連に対して撤去を要求しましたが、核戦争一歩手前の緊迫した状況となった。
しかし、ソ連はミサイルを譲歩したため、事なきをえる。
これをキューバ危機という。
冷や汗をかいた両国は、首脳間にホットライン(直通電話)を引くことに。さらに、1963年にはアメリカ、ソ連、イギリスの間に部分的核実験禁止条約が結ばれている(【←戻る】15.3.3 ラテンアメリカ諸国とキューバ革命の影響)。


黒人やインディアンの運動が盛り上がる

〈ケネディ〉は国内における人権問題にも、積極的に解決しようとしていった。

当時、バスや公共施設の利用、学校入学や就職、参政権などにおいて、南部で強く残されていた黒人を差別する制度や法律を廃止するための運動(公民権運動(市民権運動))が、〈マーティン=ルーサー=キング〉(キング牧師、1929~68)を中心にすすめられていた。



インドの〈ガンディー〉の非暴力主義の影響を受け、1963年8月には首都ワシントンDCでワシントン大行進というデモをおこない、白人のハリウッド俳優〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)を含む20万人以上の先頭に立ち、《I have a dream》(わたしには夢がある)で知られる演説をしたことは有名だ。



1964年にはノーベル平和賞を受賞している(なお、マーティン=ルーサーとは〈マルティン=ルター〉(1483~1546)のことですが、彼自身はルター派ではなく南部バプテスト連盟)。

また、黒人たちの運動(ブラック=パワー運動)に刺激され、インディアンの権利回復運動(レッド=パワー運動)も盛り上がり、1961年には全米インディアン若者会議が結成され、「インディアン人権宣言」が起草されている。のち1968年には全米最大の組織となったアメリカ=インディアン運動(AIM)が結成され、過激な運動も現れた。



そんな中、〈ケネディ〉は1963年11月22日に暗殺される。
容疑者とされた人物〈オズワルド〉が逮捕直後に暗殺されるなど不可解な点も多く、様々な憶測を生んだが真相は不明だ。



1964年に、副大統領から昇格した〈ジョンソン〉(1908~73、在任1963~69) のもとで公民権法が制定された。


〈ジョンソン〉は「偉大な社会」(グレート=ソサイエティ)をスローガンにし、国内の経済格差をなくそうとして社会福祉を充実させる。
このことが後に、莫大な財政赤字へとつながっていくのだ。



なお、〈キング牧師〉は68年にテネシー州のダラスで暗殺された。
白人のキリスト教徒との協力関係を築いた〈キング牧師〉とは一線を画した方針で黒人差別反対運動を行った人物に、ブラック=ムスリム(黒人イスラーム教徒)の指導者〈マルコムX〉(1925~65) がいる。彼はアフロ=アメリカン統一組織(ネーション=オブ=イスラーム)を設立して活動するが、彼もまた反対派に射殺された。


なお、1968年のメキシコシティ=オリンピックでは、メダルを受けたアフリカ系アメリカ人選手らが、表彰状で黒い手袋で拳をあげるポーズをとり、差別に抗議してい物議をかもした(ブラックパワー=サリュート)。


ソ連陣営の動揺

1956年のハンガリー事件の後も、ソ連からの東ヨーロッパ諸国の離脱への動きは止まらなかった。

61年にはアルバニアがソ連と断交し、62年にコメコンから脱退、68年にはWTOからも脱退している

一連の混乱を招いた〈フルシチョフ〉は、農業政策でも失敗を重ね、1964年に最高指導部から辞任の要求が出され、やむなく職を辞することに。

ソ連の支配層は、再び〈スターリン〉のような人物が登場することを恐れ、一人の人物が第一書記と首相(ソビエト連邦閣僚会議議長)を兼務しないようにした。

こうして〈ブレジネフ〉 (1906~82、在任1964~82) が第一書記、〈コスイギン〉(1904~80、在位1964~80)が首相に、〈ポドゴールヌイ〉(1903~83、在位1965~77)が最高会議幹部会議長を担当するトロイカ体制(三頭政治)が始まった。


それでも、東ヨーロッパでの反ソ連の動きは止まらず、1968年にチェコスロヴァキアで〈ドプチェク〉(1921~1992、在任1968~69)が「人間の顔をした社会主義」を訴え、自由化をすすめる改革を行い「プラハの春」と呼ばれた



しかし、〈ブレジネフ〉はソ連軍が中心となったワルシャワ条約機構(WTO)軍を投入し、軍事介入して鎮圧。「外国であってもソ連グループの一員なのだから、人の国であろうがおかまいなし。」この考えをブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)という
このときソ連、ポーランド、ブルガリア、東ドイツ、ハンガリーが鎮圧に協力している。


思想の統制はいまだ厳しく、作家〈ソルジェニーツィン〉(1918~2008)は、ソビエト連邦時代の強制収容所をテーマとした『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』でノーベル平和賞を受賞(1970)したものの、1974年にソ連を追放されている(1994年に帰国)。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊