見出し画像

古代文明と生態系 "今"と"過去"をつなぐ世界史のまとめ 第3回

僕らは今、なぜこのような世界を生きているのだろう。
ばらばらになったり、まとまったりしながらも、とりあえず仕方がない、というように動き続けているわれわれの社会は、どのようにして今ある形になったのだろう。
一個の確固たる世界があるようでいて、そういうわけでもなく、区切られているようでいて、そういうわけでもない、あいまいなまま、はっきりとしないまま漂うこの世界は、一体どこに向かっているのだろうか。
""と"過去"をつなぎながら、世界史を、ゆるく、なんとなく、まとめていきます。


紀元前3500年〜前2000年

先史時代を終えると、どの教科書でも最初の授業はオリエント世界(北アフリカから西アジアにかけての古代都市文明)から始まる。これは有り体にいえば、19世紀ヨーロッパで組み上げられた近代歴史学が、みずからの「進歩の歴史」の裏返しとして「没落するアジア・アフリカ」を描き出そうとするストーリーの残滓だ。「栄光のヨーロッパ」を描き出すには、オリエント世界はできるかぎり「邪智暴虐のオリエント」であったほうが都合がよい。「アジア的専制」という用語でもって、停滞した古代奴隷社会がオリエントの専売特許となっていったのだ。

とにもかくにも前3000年頃、西アジアのメソポタミア地方に、シュメール人という人々がウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設したのは間違いない。守護神が神殿でまつられ、王は神官として君臨した。貢納の取立てを記録するために、楔形文字(くさびがたもじ)が粘土板に刻まれた。ジッグラトという階段状の神殿がたてられ、のちの時代の塔建築の起源となる。また太陽暦と太陰暦をあわせ、19年に7度の閏月(うるうづき)をもうけた精密な暦(太陰太陽暦)も開発されている。六十進法や1週間を7日とする暦法も、シュメール人の文化がルーツである。

これらの学知は時を超えてイスラム文明が吸収し、12世紀に至ってヨーロッパ文明がそのおこぼれに預かることになる(12世紀ルネサンス)。まあ、そもそもヨーロッパとして想像される地理的範囲自体も、各時代・各主体の世界観ひとつで伸縮する代物なのだけれども。

***

シュメール人の王朝と交易をおこなっていたのがインダス文明だ。インダス川の流域から南は現在のグジャラート南東にあるカンバート湾にいたる広い範囲で、麦を栽培することで栄えたインダス文明の都市には、大沐浴場などの公共施設が建てられた。都市内部には人々がいくつかの社会的階層に分かれていた痕跡が残され、青銅器が見つかっているが、日常的には石器が用いられた。インドは綿織物の産地で知られるが、その製作と使用はこのころから始まっていたのである。メイドインインディアの綿織物は、アラビア海を超えて、ペルシア湾岸やメソポタミアにも輸出された。取引について記されたインダス文字を刻んだ印章が、広範囲で発見されている。

なおメソポタミアとインダス文明の間には、エラム文明と呼ばれる文明が栄えていたようだ。ペルシア湾の真珠やイラン高原の宝石などが取引され、ときにメソポタミアの王朝を圧倒する大勢力にも発展していった。近年、考古学者の後藤健氏の紹介で “知られざる文明”として注目されている。


***


さて、この時期のユーラシア大陸の文明に共通するのは、いずれも農耕・牧畜をベースにした都市文明であったこと。北緯30度付近に位置すること(妹尾達彦『グローバル・ヒストリー』中央大学出版部、2018年)。大河がながれていること。大規模な建造物が見られること。文字が使用されたこと。青銅器などの金属器がつくられたこと。そして、大型の家畜が効果的に用いられていたこと、である。

一方、南北アメリカ大陸はどうなっているかといえば、農耕・牧畜をベースにした大規模な都市文明は、同時期にはまだ現れていない。神殿とおぼしき建造物はアンデス地方で建造されていたものの、ユーラシア大陸の文明とは特徴を異にするものだった(農業の導入以前に、すでに神殿が建造されていたのである)。

中央アンデス地方では、今から1万1000年くらい前に人間が移住して以来、鹿が狩りの対象となっていた。しかし群れをなさない鹿よりも、群れで行動しなおかつ移動範囲の狭いラクダ科のほうが狩りやすい。前6000年頃には狩りの対象がラクダ科のグアナコへと移っていった。

リャマとアルパカの原種であるグアナコ


高地に生息するラクダ科の動物は、のちにリャマやアルパカとして飼い慣らされることになるのだが、これらを家畜化するためには高地でも育つジャガイモやキヌアを栽培することが必須の条件となる。それができるようになったのはようやく前2500年頃のことである(#参照 関雄二「アンデス文明概説」増田義郎・島田泉・ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS、2000年、p.175)。

リャマはおもに荷物を運ばせるため、アルパカはおもに毛をとるために利用されたが、ユーラシア大陸の牛馬に比べると、背中の積載量はずいぶん劣る。生物学者のジャレド・ダイアモンドは、ユーラシア大陸の文明の優位性の原因を、こうしたもともと分布した家畜の種類のほか、南北アメリカ大陸の南北に伸びる地形的特色に求めた(『銃・病原菌・鉄』)。南北に長いアメリカ大陸よりも、ユーラシア大陸のほうが東西方向への移動が容易であるため、緯度の違いが生み出す気候の変化が少なく、長距離間の交易が活性化したのではないかと見たのだ。

ダイアモンドの「環境決定論」は、彼の著作によって広く普及した。しかし人間の活動が環境によって大きく影響される点を強調するあまり、事象の単純化はいなめない。歴史学者の上田信氏の言うように、初期設定に規定されて世界史を叙述するのではなく、世界史の場を「エネルギーと物質の流れが統御し維持するシステム」と見ることが必要だろう(上田信『東ユーラシアの生態環境史』山川出版社、2006年)。

***


ところで前2500頃、中国は黄河の中・下流域において、大きな集落が出現するようになった。そこでは厚手の灰色土器が製作され、精巧な形のものも製作されるようになっていった。これを黄河文明のうち龍山文化という。畑作のほか狩猟も営まれていたようだ。


一方、長江中・下流域においても、すでに前6000〜前5000年のイネの痕跡が見つかっている。稲作をベースとするこの文明は長江文明と呼ばれる。環境考古学者の安田喜憲氏によれば、約4000年前の気候変動により、突然の寒冷化が黄河文明を襲った。彼らは環境難民として長江に逃れ、長江文明の担い手は上流の貴州や雲南へと逃れていった。それが現在の苗(ミャオ)族のルーツなのだという。

また安田氏はさらに海に乗って日本に漕ぎ出した人々が日本文明のルーツになったのだと主張する。オリエントのパレスチナ・シリアからメソポタミアにかけての「肥沃な三日月地帯」になぞらえ、雲南を中心とする「東亜半月弧」(とうあはんげつこ。下図)を想定した哲学者の上山春平らの「照葉樹林文化論」の系譜に連なる議論である。

画像2

(出典:田畑久夫「照葉樹林文化論の背景とその展開(2)」『兵庫地理』37、1992年3月、p.28-42


文字史料ではなく古気候データに基づくスケールの大きな説ではあるが、雲南を中心に照葉樹林文化(モチモチした食感の食物、なれ鮨、納豆などの発酵食品などの食文化)を共有する東ユーラシア型の文明を描こうとした点は、オリエント中心の文明発祥論に一石を投じるもので面白い。

ただ、遷移の最終段階とみられていた照葉樹林も、その内部の植物は刻々と入れ替わっていることが明らかとなっている。人間の影響により生態系は変化するし、変化した生態系が人間に思わぬ影響を与えることもしばしばだ。「人間の世界」と「生物の世界」の関わりを注意深く眺めてみると、人間の「背景」であるかに見えた自然が、生物と非生物の間で変転する立派なアクターであったことに気付くことだろう。

なお、冒頭のシュメール文明は、灌漑による塩害、あるいは上流の森林破壊にともなう洪水の多発によって衰退してしまった。森林伐採により河川流域の土壌浸食が進み、流されたシルト(沈泥)が下流に堆積。浅瀬はマラリア原虫を媒介する蚊の巣窟となった(ジェームズ・C・スコット『反穀物の文明史』みすず書房、2019年)。その後、シュメール文明の地は、前2350年ごろにはアッカド人によって征服される。しかしアッカド人の王国もすぐに衰え、シュメール人がウル第3王朝を樹立し再興。しかしシリアからアムル人が侵入して、シュメール人とアッカド人の支配した土地を合わせて支配した。これが「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典で有名なバビロン第1王朝である。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊