世界史のまとめ × SDGs 第24回 植民地からの独立と人権意識の高まり(1945年~1953年)
SGDsとは「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解するために、国連で採択された目標」のことです。
言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。
17の目標の詳細はこちら。
SDGsの前身であるMDGs(ミレニアム開発目標)が、「発展途上国」の課題解決に重点を置いていたのに対し、SDGsでは「先進国を含めた世界中の国々」をターゲットに据えています。
一見「発展途上国」の問題にみえても、世界のあらゆる問題は複雑に絡み合っているからです。
しかも、「経済」の発展ばかりを重視しても、「環境」や「社会」にとって良い結果をもたらすとはいえません。
「世界史のまとめ×SDGs」では、われわれ人間がこれまでにこの課題にどう直面し、どのように対処してきたのか、SDGsの目標と関連づけながら振り返っていこうと思います。
【1】植民地からの独立は、新たな問題を生んだ
目標10 国内および国家間の不平等を是正する
―この時代にはアジアを中心に、植民地から独立するエリアが生まれている。
ようやくですね!
―二度の大戦で疲弊したヨーロッパ諸国からの独立が達成されたんだ。
独立はスムーズに行ったんですか?
―国によって異なるよ。
ベトナムでは、大戦の末期に独立宣言がなされた(注:ベトナム民主共和国)。
しかし、フランスも自らの言うことを聞く政権(注:ベトナム国)を維持しようとしたため、フランスとの戦争(注:インドシナ戦争)が勃発。激戦を経て独立に至った。
けれど、ソ連の支援するベトナム(注:ベトナム民主共和国)と、アメリカの支援するベトナム(注:ベトナム共和国)の「2つのベトナム」に切り裂かれてしまうことになる。
同じような状況になりそうだったのがイランだ。
イランではソ連がクルド人という民族を支援して国をつくらせた(マハバード共和国)。
でも結局はイラン政府によって崩壊してしまった。
クルド人って聞いたことないですが。
―山岳地方に分布するイラン系の民族で、自分たちの国をつくることができず、複数の国にまたがって居住していたんだ。
今でもその状態が続いていて、一部は難民になっている。
また、シリアはフランスが「代わりに支配する」エリアだったけど、こちらも独立。
同じくヨルダンもイギリスから独立した。
独立したってことは、もう干渉はされませんね。
―でもシリアではアメリカが関与するクーデターが起きたり、ヨルダンがイギリスからの「独立国」として国連に入ることを認められなかったりと、中東エリアの不安定な情勢は続く。
東南アジアでは、アメリカからフィリピンが独立。
南アジアでは、イギリスの植民地だったインドが、インドとパキスタンに分かれる形で独立した(注:分離独立)。
どうして2つに分かれてしまったんですか?
ーイスラーム教徒が多く住む地域とヒンドゥー教徒が多く住む地域で、別々の国をつくることになってしまったんだ。
セイロンは、イギリス連邦の自治国として独立。
独立するときの「線引き」って難しいですね。
ーもともと民族の意識があいまいなところに、「ヨーロッパ流の国境線」を持ち込んだことで、さまざまな問題が起きた。
その最たる例がイスラエルの独立だ。
ここはもともとイギリスが代わりに支配していたエリア(注:委任統治領)だったけど、イギリスの撤退に合わせて、ユダヤ人住民が多いエリアが「イスラエル」として独立を宣言。
それに反発する周辺諸国との戦争(注:第一次中東戦争)が起きた。
また、東南アジアでもイギリスの植民地だったビルマが、非常に多くの民族をコントロールするのに苦労している。
植民地から独立した後の国づくりって大変そうですね。
ー自力で発展するのは難しいから、たいていは他の国に頼ることになる。
でも、かつて植民地として支配していた国に頼るのは嫌だから、別の国となると、この時期に世界における覇権を伸ばしていたアメリカとソ連が筆頭に上がった。
例えば、日本の植民地であった朝鮮半島では、南部がアメリカの支援する国(注:大韓民国)、北部がソ連の支援する国(注:朝鮮民主主義人民共和国)として独立することになった。
同じ民族なのに、方針の違いから別の国になっちゃったんですね。
ーオランダとの独立戦争の後、独立を勝ち取ったインドネシアは、多数の島をかかえる広い国で、まずは国内をまとめるのだけでひと苦労だった。
ジャワ人中心の国づくりへの反発もあったけど、議会での話し合いを重んじる国づくりが進められていった。
一方、ソ連に接近して北京を首都に成立したのが中華人民共和国。
これまで「中国」の政府を代表していた中華民国は、アメリカの支援を受けつつ台湾に拠点をうつした。
* * *
【2】人権の価値が認められるようになった。
目標16 平和と公正をすべての人に
せっかく戦争が終わったのに、まだまだ世界は安定しませんね。
ーそうだね。
イスラエルの建国による中東での戦争は、多くの難民を生んだ。
世界大戦でおびただしい人が亡くなったことへの反省も込めて、この戦争が勃発した年末には、国連で「すべての人類が守るべき権利」をうたった宣言が採択されているよ。
人権宣言の制定に尽力したアメリカの元・大統領夫人(エレノア・ローズヴェルト)
世界全体の人が守るべき「価値」を定めたのって、はじめてのことですよね。
ー民間における取り組みは今までもあったけど、多くの国が集まった組織で「人権」にフォーカスした宣言が出されたのは、これが初めてだね。
ただ、ソ連グループの国々(注:ソ連、チェコスロバキア、ポーランドなど)や一部の国々(注:サウジアラビア、南アフリカ連邦など)は採択しなかったから、「全世界に共通する価値が共有された」とは言いがたい。
それでもこの宣言が、その後の世界における「人権」を守るさまざまな取り決めのベースになっていくんだよ。
世界人権宣言 第1条 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
じゃあ、先ほど問題になっていた「難民」の保護も進んでいったんですか?
ーすでに難民の保護については第一次世界大戦後から国際的な取り決めが設けられるようになっていた(注:ベルギー難民問題)。
イスラエルの建国によって、ヨーロッパで大きな問題となっていた「ユダヤ人難民」問題は解決に向かった。
当時の「難民問題」はアジアやアフリカで起きていたのではなく、ヨーロッパで起きていたのだ。
ーしかし、ユダヤ人難民に代わって、その後の戦争によって今度は多くのパレスチナ難民が生まれてしまった。
彼らを保護する機関(注:UNRWA)も設立され、翌年には国連難民高等弁務官事務所(注:UNHCR)が設立された。
どうしてUNRWAとUNHCR? なんていう2つの組織があるんですか?
ーどちらも難民を保護するためのミッションを担当するわけだけど、あとからつくられたUNHCRは、難民の「現地統合、第三国定住、母国への帰還」を目標とする。
どれか一つが難民によって選択されることが望ましいとされている。
えっ、故郷に帰るのが一番良い選択なんじゃないですか?
ーそうとも限らないんだ。
治安や仕事の面で、帰ったほうが大変ということもある。
パレスチナ難民にとっても「現地統合、第三国定住、母国への帰還」の選択肢は、いずれも受け入れがたいものだ。
そこでパレスチナ難民に対してはUNRWAという組織が問題解決まで、特別な保護にあたることになったわけだ。
パレスチナ問題は複雑ですね…
ーしかし、不安定な情勢が各地で進む中、この時期にはより明確な「難民の地位に関する条約」が採択されているよ(注:発効は次の時期(1953~1979年)の初め)。
1.難民を彼らの生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ強制的に追放したり、帰還させてはいけない(難民条約第33条、「ノン・ルフルマンの原則」)
2.庇護申請国へ不法入国しまた不法にいることを理由として、難民を罰してはいけない(難民条約第31条)
これってどういう意味ですか?
ーその国にいると政治的な理由によって命に危険がある人が、別の国に逃げるとする。その人を出身国に無理やり送り返すのはやめましょうという内容だ。
ただし、「無国籍」の人の取扱いをどうするかということは、まだ共通の取り決めができていない。
また、難民を認定する基準が厳しい国では、たとえこの条約を結んでいても難民に対する保護が十分におこなわれない場合もある。
難しい問題ですね。
ーしかも、「1951年1月1日以前に生じた事象の結果として生じた難民のみ」が対象だったから、その後に発生した難民には適用されなかったんだ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊