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"今"と"過去"をつなぐ世界史のまとめ

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#コラム

【2024年版】世界史教科書 消えた用語、増えた用語:山川出版社・帝国書院の比較編

この記事の要約この記事は長い(約40000字)のではじめに要約を書いておきます。 以前、山川出版社の新しい世界史教科書の用語がどのように変化したのか記事を書いたことがあった。しかし、必ずしも単純に「増えた」「減った」と言えないのではないかという事実がみえてきた。 そこで今回は帝国書院の世界史探究教科書の収録語と、山川の収録語を比較することで、山川が収録しなかった用語とは何かをあぶり出してみることとした。 これによって、世界史の教科書にも多様な編集方針があり、その背後には

【ニッポンの世界史】#31 学習参考書と世界史:なぜ世界史は「暗記地獄」化したのか?

 これまで私たちは、「ニッポンの世界史」は、アカデミズムや学習指導要領のような“公式”世界史と、それらと対抗関係にある“非公式” 世界史の綱引きによって形成されてきた経緯をみてきました。  “公式”の語りを、“非公式”の語りが突き崩すといっても、両者の間に厚い壁があったわけではありません。  ときに、ひとりの書き手が、両者を行ったり来たりすることもみられました。  歴史学者の土井正興(1924〜1993)がそれにあたります。 土井正興: スパルタクスの研究者から教科書執

【ニッポンの世界史】#30 文化圏の罠:世界史に「アフリカ」は入っているか?

周縁の不在  1970年代の社会科教育に関する雑誌をみてみると、「好きな国」を聞くアンケートをとってみたり、何も見ずに地図を書かせてみたりして、「生徒たちの関心がヨーロッパにばかり向いている」という嘆き節が、よく掲載されています。  この地図くらい描ければ十分とも思えるのですが、たとえば職業系の高校において同じようなことをやらせてみても、全然描けない。  世界史の授業中に顔をあげさせるだけでも難しい。  そういった嘆きも聞かれるようになります。  国外に眼を向ければ、世界

【ニッポンの世界史】#28 それぞれの「近代」批判:吉本隆明・阿部謹也・謝世輝

謝世輝のヨーロッパ中心主義批判  さて、今回は謝の世界史構想の全容に迫っていきます。  謝の構想を一言でいえば、「これまでの世界史はヨーロッパ中心主義的で、まちがっている」ということに尽きます。  たとえば、1974年の時点では次のように主張しています(謝世輝「世界史の構築のために」『歴史教育研究』57、1974、70-71頁)。  箇条書きににしながら、その特徴をあぶりだしてゆくことにします。 1.世界史にとって重要なのはアジア(東洋)だ  文明圏(文化圏)にわけて

【ニッポンの世界史】#27 忘れられた世界史家・謝世輝(しゃせいき)とは何者か?—万博・ヘドロ・ポストモダン

3つの不信  アジア初の国際博覧会であった大阪万博は、1970年3月15日から9月13日までの183日間開催され、国内外から116のパビリオンが参加しました。総入場者数約6421万人は、当時として史上最高の記録でした。  グランドテーマは「人類の進歩と調和」。共存が難しい「進歩」と「調和」を掲げ、人類の高い理想を追求するものでしたが、戦後日本の歴史は、1970年を境にとして、大きな転換点を迎えることとなります。  図式的に書けば、次のようになるかもしれません。  ① 西

【ニッポンの世界史】#24 世界史にとって、1970年代の「大衆歴史ブーム」とは何か?

1970年代の大衆歴史ブームの担い手は誰か?  まずは前回のふりかえりから。  1970年に高校の学習指導要領が改訂され、世界史A・Bが世界史に一本化されるとともに、「文化圏」学習がはじまったのでした。  改訂された新学習指導要領が実施されたのは1973年からのこと。  これに基づくカリキュラムと教科書により教育を受けることになったのは、1957年より後に生まれた高校生たちです。  1957年生まれは「ポスト団塊世代」ともいわれ、ギリギリ東京五輪の記憶があって、多感な時代

【共通テスト2024解説】 アレクサンドロスをどう見るか?

1月13日に実施された2024年度の大学入試共通テストで、アレクサンドロス大王に関する問題が出題されました。 世界史Bの共通テストは次の追試験の問題で最後となります。 まだすべての日程が終わらず、そわそわしているところですが、次年度からはじまる世界史探究の共通テストの方針をうらなう上でも、気になる出題でしたので、そわそわの紛らわしにピックアップしてみます。 結論から言えば、おそらく、作問のベースにあるのは、森谷公俊氏の著作です。 以前からアレクサンドロス大王の扱い方はその評

ニッポンの世界史【第10回】:京都学派の世界史(その1)

京都学派とはなにか  京都学派とは一般に、京都帝国大学を拠点とした西田幾多郎と、その後継者である田辺元、さらにかれらの弟子たちを総称した呼び名です。  西田と田辺を受け継いだ第二世代のうち、哲学者の高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、さらに西洋史家の鈴木成高の4人は「京都学派四天王」と呼ばれることもあります。  彼らの共通点は、仏教的な概念と西洋哲学の概念を重ね合わせて、西洋近代を批判し、西洋中心主義をのりこえた新しい「世界史の哲学」を構想しようとしたところにありました。  し

【ニッポンの世界史】第9回:アジア・アフリカ会議の衝撃

 前回は飯塚浩二と上原専禄が、”公式”世界史に代わる世界史を構想しようとしていたのを確認しました。  では、2人をそこに駆り立てる動機となったものは一体何だったのか?  それは、当時同時代的に進行していたアジア・アフリカの植民地の独立であり、その立役者でもあったネルーです。 ネルーのインパクト  ジャハルワル・ネルー(1889〜1964)は、インド独立運動の指導者で、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで自然科学を修めたうえで、弁護士資格を取得したエリート中のエリート。

【ニッポンの世界史】第8回:ヨーロッパの「妄想」に挑んだ2人—飯塚と上原

 1949年に「世界史」という科目が設置され、戦前の西洋史・東洋史・国史(日本史)をのりこえる「世界史」構想が本格的にはじまりました。しかし、これまで見てきたように、世界史に対するマルクスの唯物史観の影響力は、年々強まっていきます。  特に1947年9月に、マルクス未完の草稿である『資本制生産に先行する諸形態』(ロシア語で執筆)が翻訳され『歴史学研究』に掲載、1949年に書籍として刊行されたことは、大きなインパクトを与えました。 世界のどの地域も一様のスピードで発展してこな

【第6回】ニッポンの世界史:アメリカ映画とソ連映画から見る「アジア」観

 ところで、敗戦後の日本人は、アートやエンタメを通して、どのような世界観を育てていたのでしょうか?  「学問や政治の動向はさておき」としたいところですが、そうも言ってはいられません。  戦後の世界は、1946年のチャーチル英・元首相の「鉄のカーテン」演説、1947年のトルーマン米大統領による「封じ込め政策」、1948年のソ連によるベルリン封鎖を皮切りに、アメリカ陣営とソ連陣営に真っ二つに分かれて睨み合う「冷戦」の時代に突入。  戦後直後の混乱、復興にむけた動きのすすむ中、科

ニッポンの世界史【第4回】東洋史の「再発見」 : 宮崎市定・古代文明・トインビー

宮崎市定 「ヨーロッパは後進国だ!」  戦前の日本における東洋史は、中国史のウエイトが多くの割合を占めていました。  しかし、いわゆる京都学派の宮崎市定のように、アジアが世界史に果たした役割を重視し、アジアを射程にいれた世界史を描こうとする試みも、すでに戦前からありました。  たとえば、文部省の要請により宮崎も編纂委員として関わった『大東亜史』(未完)の冒頭部分をもとに戦後刊行された『アジア史概説』は、東洋史の学習指導要領(試案)でも参考図書に挙げられています。  オリエント

ニッポンの世界史【第3回】世界史の「氾濫」

「教科世界史」は、なぜ暗記地獄化したか?  前回みたように、「科目」としての世界史は、戦後まもなくの混乱期に、学問的に深い議論が交わされることなく誕生したものでした。  そもそも学問としての世界史自体、未確立だったこともありますが、その輪郭が不確かであったからこそ、文部省の教科書調査官や歴史学者、教員、予備校講師、それに作家に至るまで、さまざまな人々の手が加わり変化し続ける余地ができた面というもあるでしょう(注1)。  とくに戦後まもなくは、教員がみずから世界史という科目

【第2回】ニッポンの世界史:日本人にとって世界史とはなにか?

「世界史」という科目は、どのようにして生まれたのか?  前回、1949年に「世界史」という科目がつくられたと述べました。  どのような経緯で「世界史」という科目が置かれたのでしょうか?  今回はちょっとお堅い内容にはなりますが、「科目世界史」がどんなふうに誕生したのか、その秘話をきちんと確認しておかねばなりません。  まずは戦後まもなくの状況を確認しておくことからはじめましょう。 戦後の新科目「社会科」  1945(昭和20)年9月2日、1945(昭和20)年9月2日、東