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真面目からの脱却

真面目すぎる。頭がおかしいと言われた。友人に。

僕は基本的に異端であることや歪んでいることに魅力を見出すタイプなので、この時も思わず喜んでしまったことは正直に白状しておく。
頭がおかしいと言わせしめるほどに真面目であることに成功したのかと。あるいは真面目を演じることにかけて他を圧倒する程の異常性を見せたのかと。そこに価値を見出そうとしたことは確かである。

さて、全国の真面目系諸君はもれなく皆んな理解していることと思うが、我々は真面目であるという自意識はない。いつだってそう評価するのは他人だ。自分のことを真面目だと思っている耄碌した輩はおるまい。ありがたくも「真面目だねー」という評価を頂くことが多いが、いい加減に変化がないなとため息を吐く。

僕は小学校の通信簿に6年間全てにおいて「優しい」という言葉が書かれていたことがある。示し合わせたようにだ。全ての教員が口裏を合わせたのか?こんな偶然があるのか?教育機関のあまりにも少ない語彙量、この国の未来を憂いてしまう。

そんなわけで三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。僕は20代の後半に差し掛かろうという歳だが、数少ない友人から頂いた「通信簿」には、真面目すぎる頭がおかしいと記載されていた。

ある日突然、「真面目すぎるせいで今まで本当に辛かったんです!僕,一つ一つのことに真剣に取り組んじゃって,それで疲れちゃって,うまくいかない自分にイライラして!でも僕,今日から心入れ替えました!力を抜いて適当に生きることを今日から誓います!自分の生きたいように生きます!」

目から美しい涙を流して,誰にも話せなかった昔年の苦しさを吐露し,そして心を改めて新しい自分になれるのだろうか.ありのままの姿を見せるのだろうか。

性格は変えられない。

しかし行動は変えられるかも知れない。「やらないといけないこと」中心に生きてしまっている自負はあって、安定を求めて丁寧に丁寧に生きてるつもりが、逆に余裕失ってることにそろそろ気付かないといけない。

これまでの人生、「恐怖心」をガソリンにして突っ走ってきた。今も漠然とした「恐怖」を原動力に動く生き方が癖になっている。

責任のある行動をするのは大事だけど、カチッとしすぎてつまらない人生になってるなぁ、としみじみ思う。思うだけだが。

「不真面目でも損はしない」
「社会では不真面目な方が得」
まずこの辺を事実として受け入れようと思う。

僕の場合の「真面目さ」は形状記憶合金みたいにちょっとやそっとじゃ変えられなさそうだ。無理矢理こじ開けるくらいの気持ちでこれまでの行動パターンから脱却していかないといけないと思う。

やりたいこと、行きたい場所、知りたいこと、一つ一つ掬い上げて逃さない様にしよう。その為には、やりたくないことに囚われてたらダメだ。ねじ込め。人生にやりたいことをねじ込め。
今年がラストチャンスかも知れない。それとも今年も決意だけで終わるのだろうか。