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頑張るとか、頑張らないとか、みんなとか、自分とか


「頑張らないといけない」「あの人と比べて私は」って私は毎日思う。
でも、フォーカシングとマインドフルネス、少し学んだことで 自分自身を思いやること、向き合うこと、優しくすることってとても大切なんだなと思えるようになった。



学校教育は「はっきりしなさい」「成果を出しなさい」「頑張ってる人は偉い」みたいな風潮がある。いわゆる体育会系の部活もそうだし、社会に出てもそう。それがハマる人もいる。でも、ハマらない人もいる。
やるべき事に翻弄されて、「やるしかない」と自分を追い込んで 気がついたら''自分''が分からなくなっちゃったりとか、取り返しのつかないくらいボロボロになったりとか




マインドフルネスは、半期分の授業を取っている。これは「今、ここ」にいる自分とちょっと向き合おう、私はどう考えているのかな。でもその見えてきたものが辛ければ距離を置こう。みたいな内容。

「呼吸」に意識を向けるものから「愛」「思いやり」を感じようって具体的なものまでそれぞれにフォーカスした瞑想がある。自分の体の内部に注意を向けたり、大切な誰かを思い浮かべたりする。どれも、忙しい現実から少し距離を置いて 自分自身はどう感じているのかを知るもの。


先生の思想も入ってると思うけど、
授業では「『今しなくてはならないこと』それは自分を犠牲にしてまでしないといけないのかな。少し距離をとる事が必要なときもあるんじゃないかな。」「『もっとこうなりたい、ならなくてはならない』と思うのも素敵だけど『ありのままを受け入れる。』そんなことが大切になってくるときもあるかもしれない」って言われる。


「頑張れるのは素敵だけどそうじゃなくても素敵。」なんだって



フォーカシングは授業で数コマ分使って触れられたり、博士課程の先輩の研究プログラムに参加させて頂いたりしてる。
これは、「自分のもやもやした感情(フェルトセンスといいます)に目を向けて、言語化することで楽になろう」みたいな内容。

「自分自身と向き合う」点でマインドフルネスと同じだと思って少し調べたら 向き合い方が少し違うみたい。マインドフルネスは「受け流す」、フォーカシングは「理解した上で更に生かそう」とするみたい。詳しくはこの論文を読んでください。


フォーカシング体験では「それを思うとどんな感じがする?」「無理やり言葉にしなくていいよ」「ぼんやりしたよく分からない感じを持っているということを分かっておこうね」と言われる。




マインドフルネスやフォーカシングは、日常生活を送る上では忘れてしまうことなんだと思うし、いわゆるレールの上を歩けている人にはそぐわないかも。忙しい毎日、わざわざ自分を大切にする時間なんてとれない。
でも、本当に疲れたとき、敷かれたレールから外れざるを得なかったとき、自分を追い込んでしまいがちな人、「頑張る」のが苦手な人の助けになるかもしれない。


私はとても泣き虫なんだけど 過去に「なんで泣いてんの?」と言われたことがある。その時は多分、言語化するとしたら 悔しくて悲しくて情けなくて泣いてしまっていることに対してもやめたくて、自己嫌悪で悔しくて 泣いていたと思う でもその時の私には「なんでか分からない」ことしか分からなくて 「分からないよ!分からないけど勝手に涙出てくる」って正直に答えたら「そんな物語みたいな言い方されてもこっちどうしたらいいか分からん(笑)」って笑われたことがある。
今 フォーカシングのことを考えていて これってフェルトセンスだったんだ、無理やり言語化しなくて良かったんだ、私は間違ってなかったんだ って救われた。



上手く言えないけど 私は弱者側、大人しい側、忙殺されてしまう側、少数派の味方でいたいと思ってる。私もそちら側の人間だから。
まだ学んでる途中だからなんとも言えないけど、フォーカシング、マインドフルネス、ポジティブ心理学、クライアント中心療法は 私達を救ってくれるんじゃないかと思ってる。


みんな 幸せになろうね

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