できるようになりたいってなんでなんだろう
出来るようになりたいって動機づけの仕方とか、やれば出来るんだって自己効力感を高める方法とか 結構興味ある
これらって幼稚園か遅くても小学校低学年までにあるかないかでその後の学習人生に関わるんじゃないかな
私の場合 沢山本を読んでもらって育ったので本が好きになって漢字も覚えたのが割と始まりかなぁ
生来的な性格と親の教え方(?)のおかげでかなり素直で真面目で元気いっぱいだったので 幼稚園、小学校1年生のときに 例えば 「クラスで1番挨拶をちゃんとする」って褒められたり、「姿勢いいね」ってみんなの手本になった記憶はある
こういう「みんなの前で褒められた」「私が1番できるんだ」「私ってまだ習ってないのに漢字こんなに読める!」みたいな経験が自己効力感に繋がって、褒められるのは強化子としてしっかり作用してた
親がすごく褒めてくれるし、話聞いてくれる人だったのもかなり関係してると思う
自己効力感が高いから私はできるんだって思って日々学習してたと思うし、本読むの好きだから読解力も集中力もあって それによって小学校1年生の学習が上手く行き、テストでいい点をとり、褒められ もっといい点とりたくて……の永遠ループなのかなぁ
九九
ところで九九って小学校2年生が全部覚えるのはちょっと難しいと思う。
それを乗り越えられるかって自己効力感があるかとか 他の子に負けたくないとか そういうところなのかも(この時期の子は自己効力感ズタボロの子はいないし、勝負も好きなのでぼぼ全員通過するのかも)
私は算数からつまづいている人なのですが、記憶の限り1番初めに上手くいかなかったのが2ケタの筆算。
やり方が分かってないんじゃなくて計算ミスなんだけど 2.3回やり直しても正解できなくて もういいやってなった記憶がある
こういう小さいところから自己効力感って下がっていくのかも
小学校の時の私はテストがほぼ80点以上、いわゆる勉強出来るタイプだったんだけど、小学校3年生の時 算数で39点をとったことがある。多分ほとんどケアレスミスで
すごく悔しかったけど 算数だしいいかなーーって思ったの、それって心理的に防衛だったかもしれないけどその時既に算数に対しての自己効力感って下がってたんだと思う
算数・数学はその先も苦手で 小学校のときも算数の応用問題は分からなくてもいいやって思ってたし、中学校は数学だけクラス平均か少し下、他の教科はクラス上位みたいな感じだった
数字に対する自己効力感が低いのは初めは注意深くない性格とか、やり方分かってるしって大事にしなかったことから始まってるんだ
小学2年生なんて注意深さに大差ないんだから ちょっと向き合って 正解できるようになっていれば算数でも自己効力感下がらなくて 今でももっと数学できたのかも
ローマ字
算数はそんな感じだったんだけど 自己効力感ぶち上がりしたエピソートとして印象的なのはローマ字
ローマ字って小学校3年生の1.2学期で習ったんだけど あまり真面目に教えられなくて(ごめんなさい)うちの学年の同期は3年生の1月の時点でほとんど誰も覚えてなかった(多分)
それに気づいた担任が独自でテスト(褒美付き)作ってくれた
結果的にそれのお陰で私(と多くのクラスメート)は1ヶ月ちょっとでローマ字全部覚えたの
すごくない???やれば出来るんじゃんってすごく思った
結局
私は幼稚園〜小1で上手く自己効力感を手に入れてそれが(算数以外は)打ち砕かれてないから今こうしているのかなって話しかな
あとね、似た言い方だけど「出来る子」認定されるとそれを保とうと頑張るから 初めに「出来る子」だった子はその先もうまくいきやすいかも
私もそのタイプだし、初めにそう扱ってもらえた子は幸福だと思う。
おまけ
ちょっと話は変わるんだけど、自分が持ってるアドバンテージはちゃんと理解しておかないといけないと思う。自分のためにも他人のためにも。
例えば、器用なのに その自覚がなくて「私は“普通”に出来てるのに なんでこの人は出来ないんだろう。サボってるからだ!」って思うのは 暴力だと思う。
器用だとか、家庭環境に恵まれてるとか、努力する才能があるとか、理解力があるとか そういう自分の持ってるものを誰しもがもっていると思ったらよくない。
だから私は 初めにできる子認定されたこと、幼い頃に本を沢山読んでもらったこと、家庭環境に結構恵まれていること、音楽と文章が好きなこと、考えることが好きなこと、努力する才能があること は自分のアドバンテージだと自覚するようにしている。自分の当たり前は他の人の当たり前じゃない。思いやりとしてもっておきたいな。
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