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【大人の歴史シリーズ】#2 近代史上強大な科学力で世界に君臨した米財閥デュポンの軌跡

※この記事の読書時間は10分以下です。
皆さんはデュポン財閥を知っていますか?

米5大財閥、通称「グレートファミリー」。
その1つであるデュポン財閥は、現代では世界最大の化学メーカー「デュポン社」を筆頭に、世界70か国・150を超える企業を有し、化学・宇宙・医療・農業・バイオテクノロジー分野で多くの影響を持っています。

圧倒的な科学力を武器に、世界の頂点に立ったデュポン。
その富の始まりは、1900年代、あの世界大戦からでした。

ある時は大衆から「死の商人」と忌み嫌われ、またある時は、大衆先導の原動力となった巨大財閥デュポン。

破壊と創造が連鎖する時代をデュポンはどのように生き抜いたのでしょうか?

この記事は、時代背景とともに紹介する歴史人物や団体に焦点を当てて、よりコアな歴史の事実を知りたい人向けの記事になります。
所々稚拙な表現もありますが、暖かい目でご一読ください。


■ 莫大な富を築いた”死の商人”デュポン

"米最大の火薬メーカーに発展させた実業家E.L.デュポン"

デュポン社の始まりは1799年、フランス革命によってアメリカに亡命したデュポン家一族でした。

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写真はデュポン社創業者のエリューテール・イレネ・デュポン。

彼が渡米してまもない頃のアメリカは未だ開拓時代が続いていました。
当時のアメリカは鉄道の敷設工事や開発に必要とされるエネルギー源「石炭」を掘り出すため、炭鉱開発に大量の火薬が必要とされていました。

彼はアメリカの粗悪な火薬に注目します。
フランス滞在時、偉大な化学者として現代でも広く認知されているラボアジエに師事していたこともあり、彼はその化学知識により従来の黒色火薬を改良。徹底的な品質管理と安全対策、高品質な商品によりアメリカ政府の信頼を勝ち取ります。

"死の商人"として忌み嫌われたデュポンの歴史
E.L.デュポンがこの世を去ると、デュポン社は家族経営を基盤とした巨大トラストを形成、全米にシェアを広げました。

アメリカ最大の火薬メーカーとして圧倒的なシェアを手にしたデュポンは、次第にアメリカの戦争を支援することとなります。

1914年に勃発した第一次世界大戦では連合国全体の40%にあたる火薬を供給。大戦に消極的だった当時のアメリカ大衆から「死の商人」と忌み嫌われるようになります。

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写真は引き金を引くだけで連射を可能とした機関銃。
飛躍的な火薬性能の向上により生み出された武器でした。

大戦には勝利したものの、武器・弾薬の供給を行って莫大な資産を手にしたデュポン社に世間からは非難が起こります。

もし私たちが英仏両国に火薬を送っていなければ、ドイツは戦争に勝つ可能性があった。そして次にはアメリカもやられ、ここがドイツの植民地になっていたかもしれない。

アメリカ公聴会でデュポン社のイレネデュポンⅠ はこう語りました。

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イレネデュポンⅠ 。1919年から1925年までデュポンの社長を務め、第一次大戦終戦からアメリカ大衆の文化を支えた人物です。

以降、彼の元でデュポンはアメリカ大戦景気のインフラ開発を支え、大衆文化の原動力を作ることとなります。
デュポン社は死の商人からの脱却を目指し、火薬の原料から合成ゴムやプラスチックなど様々な素材を開発しました。


■ 大衆の合言葉 "Buy Now, Pay Later."

科学の力で大衆文化を先導したデュポン
1920年代初頭、アメリカの国民所得は30%以上増え、史上初めて生活必需品以外を大量に買うことができる時代が到来しました。
未曾有の好景気に沸いたアメリカは「狂乱の20年代」と呼ばれ、世界経済の頂点に君臨することになります。

大量消費こそ美徳 
Buy Now, Pay Later.

当時のアメリカを象徴するスローガンです。
この大量消費社会の原動力となったのがデュポン社でした。

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写真は絹の肌触りをアピールした1920年代のレーヨンの広告。
安価で大量生産を可能にした人工繊維は、大衆女性の装いを華やかにしました。

他にもセロファンは包紙を進化させ、アメリカ全土にスーパーマーケットが登場。現代では当たり前のナイロンストッキングもデュポン社が始まりでした。

美脚は女性の象徴となっていましたが、それまでストッキングは高価な絹が素材で、市民には手の届かない商品でした。

化学の力でナイロンの大量生産を可能にしたデュポンは、1940年ナイロンストッキングを販売。空前の売り上げを記録し、当時のアメリカ人女性が1人1足を買う計算となるほど圧倒的な売り上げを誇りました。

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大量消費社会に生きたアメリカ国民は、新製品が作られるたびに欲望を掻き立てられるようになりました。

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写真は当時のデュポン家のバカンスを記録したカラーフェルム映像のワンシーン。当時貴重だったカラーフィルムも火薬原料であるニトロセルロースを使用してできたものでした。

従来の生活水準よりも大きく向上させたアメリカ国民は、
「大量消費こそが美徳」と豪語するに至ります。

爆薬以外の売り上げが全体の95%を占め、科学によって大衆文化を根底から変えたデュポン。財閥としての地位を確固たるものにしました。


"狂乱からの転落 死の商人の十字架を背負うデュポン"
しかし、1929年、世界恐慌が大衆の熱狂を憎悪へと変えます。
極貧生活を強いられたアメリカ国民のほとんどが、経済回復への期待と「狂乱の20年代」に回帰することを切望していました。

世界経済は逆転し、社会主義・ファシズムが台頭。
帝国主義が世界を圧巻し、再び植民地争奪を繰り広げる世界にアメリカも介入していくことになります。そしてまた、再び起こる大戦がデュポン社を軍需産業へと引き戻していきました。


■大衆先導から死の商人に再帰するデュポンの葛藤

"安全保障と死の商人を引き受ける葛藤に悩まされたデュポン財閥"
1937年、最も華やかで美しい瞬間として全米で注目されたあるイベントがありました。

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写真の女性はデュポン家の系譜を受け継ぐ花嫁エセル・デュポン。
時の大統領 ルーズベルトの息子 ルーズベルト.Jrと結婚したときの写真です。

大統領と結びついたデュポン財閥は、第二次世界大戦が始まると再びアメリカの軍需産業の要となります。

大衆の象徴とされたナイロンストッキングもパラシュートに姿を変え、全国民が戦争に勝利できるように団結しました。
そんな時、ある国家機密計画がデュポン社に持ち込まれました。

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原子爆弾を開発するマンハッタン計画です。

アメリカ政府はデュポン社にプルトニウム工場の建設を依頼。
開発を指揮したのはデュポン一族の1人、グリーンウォルトでした。

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クロフォード・グリーンウォルト。
戦後、原子力開発の平和的利用を模索し、デュポン社の社長になった人物です。当時は原子力開発責任者として、アメリカ政府に影響力を持っていました。

再び死の商人と呼ばれることを嫌ったデュポンは、
利益を受け取らないことを条件に参加。原爆開発から生まれた特許は全て政府に帰属、経費以外に受け取る報酬はたったの1ドルのみという契約を交わしました。

デュポン社はプルトニウム製造のために3機の原子炉を建設。
しかし、開発責任者であったグリーンウォルト自身はこの人類初の試みは困難だと捉えていました。

プルトニウムを製造できたとしても、原子爆弾を作れる保証はありませんでした。このプロジェクトはまさにギャンブルの連続だったからです。
しかしながら、これをアメリカの安全保障と天秤にかけた時、どんなに大きなギャンブルだったとしても、そして結果をうむ可能性が小さかったとしても、やるしかなかったのです。

科学の粋を集めたマンハッタン計画により、ウラン型とプルトニウム型、2つの原子爆弾が完成します。開発に大きく関わったプルトニウム型はファットマンと名付けられ、長崎へ投下されました。

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写真は長崎投下直後のカラーフィルムのワンシーンです。
プルトニウム製造から投下映像まで、デュポン社の科学が歴史に刻まれた瞬間でもありました。


"人類を狂わせた科学の力、死の商人の代償"
終戦後の1945年12月、アメリカで原子力シンポジウムが開催。
歴史の表舞台に出なかった開発支援者・企業・団体による今後の原子力の平和利用に関するシンポジウムでした。

グリーンウォルトもこのシンポジウムに出席。軍事技術の民間転用について語りました。

技術面において、現段階のレベルで十分です。原爆開発の原料はすでに原子力発電に転換可能です。

マンハッタン計画に関わった企業は、戦後も原子力開発を担うことになります。当初、マンハッタン計画に参加することを躊躇していたデュポン社も国防の名の下、巨大ビジネスとなった核兵器開発に参入しました。

そこには、大衆先導の雄として絶大な影響力を誇示した一方で死の商人としての十字架を背負うデュポン社の姿がありました。

先に紹介した、ルーズベルトの息子と結婚したエセル・デュポン。アメリカ史上最も高貴な結婚式として注目を浴びた彼女も幸せを掴むことはありませんでした。

彼女は終戦後、離婚の末、自殺。
長く、精神の病に苦しんでいたと言われています。


■戦後、人類の夢「アポロ計画」を支えた英雄としての素顔

1969年7月、世紀のビックニュースに人々は釘付けとなりました。

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アポロ11号の月面着陸です。

この偉業に大きく関わっていたのがデュポン社でした。

戦後デュポン社は総合化学メーカーとして大きく発展。
デュポン社は宇宙服の開発を手掛けました。

月面着陸成功の大きな課題はその激しい温度差でした。
月面は昼は摂氏100℃、夜はマイナス100℃以下。これまで人類が経験したことのない壮絶な探究でした。

科学の粋を結集した21層からなる宇宙服のうち20層にデュポン製品が使われ、デュポンの技術力が人類初の月面着陸を成功させることになります。

月に建てられたアメリカ国旗もまたデュポンのナイロン製品でした。


■ 最後に

近現代史の転換期、破壊と創造の時代、その全てに大きな影響力を及ぼした米巨大財閥デュポン

強大な科学力で世界を握ったデュポン財閥は、現代でも

医療・科学防護服で圧倒的シェアを誇るタイベック
バイオマス分野で世界をリードするダニスコ
世界各国の企業と連携し今もなお世界科学を牽引するE. I. デュポン

など、ワールドクラスの企業が世界中で科学競争をリードしています。

死の商人から人類の希望まで、
世界を牽引し続ける彼らの科学力はこれからも人類の将来に大きく影響し続けることでしょう。



お読み頂きありがとうございました。
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偉大な人物の生き様に触れて、少しでも多くの人にとって有意義な人生になるように祈ります。

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