見出し画像

いいように使われていないか?

いいように使われていないだろうか?

最初は善意で始めた取り組みも、いろいろな要望を答えていくうちに膨張し、自分の時間を奪いやしないか。

気がつけば、そこに自分の意思はなく、「善意で始めたから」なんていう、甘い理由で自分に重荷を背負って生きていないだろうか。

誰かに何かをお願いするとき、それはお互いにとってメリットがあるかどうかを考えたい。一方的に自分自身のメリットを押し付けて無理強いしているのでは、相手にとっても辛い。逆の立場になって考えて見ればわかることだ。やりたくもないことをやらされて楽しいわけがない。

仮に相手にメリットがなかったとしても、メリットを作り出してあげることが大切だ。そうすれば相手は少なからずあるであろうメリットのために多少は手伝ってくれるかもしれない。もちろん、それが全く意味のないことになる可能性もあるし、いい経験になることもある。

「いい経験」という言葉はとても使いやすい。全くやったことがないことをやれば大体は「いい経験」になる。学生にありがちな、「社会勉強」と称して、無給で働かせたり、時間を奪ったりする人たちもいる。もちろん学生側が承認の上ならいいんだろうけれど、ハマりすぎると抜け出せなくなることだってある。大人って怖い。

メリットってどんなところにあるか分からない。仮に有名人のお付きとして無給で仕事をするにしても、その有名人のそばに居られることをメリットとする人もいるだろう。お金がもらえればいいと思う人もいれば、自分のスキルになることがしたいという人もいる。

自分が得たいことはなんだろう。自分にとって意味のあることってなんだろう。なんとなく生きていやしないだろうか。

少なくとも、多少は自分がまた1つ変われるような何かや、きっかけを生むところに身を置きたいし、生み出していきたい。

友達にいいように使われている気がして、ちょっとムカっとしていた。発散のための走り書きした僕のメモ。

訪れてくださり、ありがとうございます!