盛大な拍手の中
桜の見頃も終わり、ようやく、ぐずぐずと残っていた冬の寒さが過ぎ去った四月の半ば。盛大な拍手に包まれ、二人は登場した。僕も司会の人に従い二人に祝福の拍手を贈る。新郎と新婦は目を合わせ、笑顔で会場全体に向かってお辞儀をした。
名古屋駅からほど近いホテルの広間。そこで行われている結婚披露宴に僕は家族とともに出席していた。会場の後方、入り口から見て右側の丸テーブルの一つが僕たち家族に与えられた席だった。
顔を上げた主役の二人は、時折、会場の中央辺りに座っている彼らの友人とアイコンタクトを取りながら、ゆっくりと前方に用意された二人の席へとテーブルの間を縫って歩く。席に到着した新郎にマイクが手渡されると、きらびやかな音楽がフェードアウトした。
「皆さま、本日はお忙しい中、僕たち二人のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
緊張した面持ちでそう言うと、一旦言葉を切り、こう続けた。
「短い時間ではありますが、本日は楽しんでいってください」
すると会場全体からは先ほどよりも大きな拍手が沸き起こる。タイミングを逃した僕は一拍遅れて慌てて手を叩いた。
司会の人が慣れた様子で受け継ぎ、促された新郎の父親が音頭をとって乾杯すると、料理が運ばれ、歓談の時間となった。いわゆる「暫しご歓談を」というやつだ。「暫しご歓談をお楽しみください」と司会の人が言った時には、ほんとに言うんだと少し感動してしまった。
初めての結婚披露宴というやつで少し緊張していた僕はようやく少し解放された気がして、のどが渇いていたことに気づき、水を含んだ。
「なんでお前が緊張してんの」
左隣に座る兄が馬鹿にした口調で馬鹿にしてくる。
「別に。緊張してるわけじゃない。ただ初めてだからどうしていいか分かんないだ――」
兄がコップを指さす。僕がいま水を飲んだコップだ。
「……なに?」
「それ」
「うん」
「俺の」
「え?」
目の前には僕がさっき飲んだコップと、その右には誰も口をつけていない水の入ったコップが置いてある。兄の言っている意味を理解した。
「間違えた」
「言っただろ」
横を向くと、兄は満足そうに笑っている。やはり久しぶりに会ってもこの顔はムカつくものだ。だから、自分の間違いを棚に上げてそのままストレートに言ってやることにした。
「あのさ、その顔ムカつくから」
「知ってる」
「だったらやめてくれないかな」
「無理だよ。こういう顔なんだから」
兄は表情を変えることなく、ニッコリと笑う。何を言ってもこの人には効かないのだ。僕は兄に言い返すのを放棄し、無言で未使用のコップを差し出した。
「お姉ちゃんの前ではそんな顔するなよ。祝いの席だぞ」
「わかってるよ」
「それにしても、」
兄は前方に向けた目を細めてこう続けた。
「お姉ちゃん綺麗だな」
それについては、僕も本当にそう思う。身内だからひいき目に見ている訳ではない。彼女は本当にキラキラとして美しかった。ただ「お姉ちゃん」といっても、本当の姉ではなく、従妹のお姉ちゃんだ。僕たちの父親の兄の娘。僕たちは新婦の親戚としてこの披露宴に招待されていた。
僕は従妹のお姉ちゃんとほとんど会ったことがない。僕は、というよりは僕たち家族は、と言ったほうが正確かもしれない。ほとんど親戚付き合いというものをした思い出がないのだ。せいぜい母方の祖父母の家に数年に一度遊びに行く程度。
だから、というか、そのため、というか。祝福ムードのこの会場で、僕の座るこの席だけぽつんと取り残されているようで、『結婚披露宴』という題名の演目を見せられているような感覚だった。
そのことを兄に言うと、「考えすぎ」と一蹴された。そしてこうも言われた。「こういうのは楽しんだもん勝ちなんだよ」と。勝ち負けは関係ない、絶対に、と思ったが、新郎新婦の馴れ初めを再現した映像が流れると司会の人が言うので、おとなしくスクリーンに目を向けることにした。
二、三時間ほどの短い披露宴だったが、終わったころにはすっかり疲れ切っていた。一度も会ったことのないような親戚の人たちと形式上の挨拶を交わし、ずっと肩に力を入れていたせいだ。やっと終わったと思ったら、今度はこの後、親戚だけでお茶をしようなんて誰かが言い出したので、僕は新幹線の時間があるのでと、丁重に断った。母親が何か言いたげな顔をしていたが、そんなものは関係ない。これ以上の時間の苦行には耐えられないと僕は判断した。別れの挨拶を済ませ、一人会場を後にして駅へと向かった。
外に出ると、四月にしては少し暑かった。空には雲ひとつ見当たらず、日差しが容赦なく照り付ける。上着を脱ぎ、ネクタイを緩めると、別に急いでいる訳でもないのでゆっくりと駅に足を運ぶ。しばらく歩いていると、後ろから慌ただしい足音とともに、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、ヒカル待てよ」
僕のそばまで駆け寄ると、兄は胸に手を当て乱れた呼吸を整えた。
「なに?」
「なにって、お前。何も言わずに行っちゃうことないだろ」
「兄ちゃんトイレ行ってたから」
「戻るまで待てよ、別にうんこしてたわけじゃないんだからさ」
まったく、と口を尖らせると兄は上着を脱ぎながら歩きだした。
「みんなお茶するって」
僕は歩き出した兄の背中に向かって言った。立ち止まったまま。
兄は首元をパタパタと扇ぐ。
「ああ、知ってるよ」
「兄ちゃん行かなくていいの」
兄は足を止め振り向くと言った。
「ヒカルは?」
「僕はいいんだよ」
「じゃあ、俺もいいんだよ」
「いや、兄ちゃんは行かなきゃだめでしょ」
僕は本当のことを言った。
兄はもう一度さっきよりも深いため息をつくと、小さい子供に言い聞かせるように言った。
「あのな、なんでお前がよくて、俺がだめなんてことがあるんだよ?そんなことあるか?君は馬鹿なのかな?」
ん?どうなんだ?と言わんばかりに首をかしげる兄に冷たい視線を送ってやる。それでもやめようとしないので、僕は小さくため息をつくと、何も言わずに兄を追い越して歩き出した。
それにしても暑いな、まだ四月だぞ、とつぶやきながら兄も僕に並んで歩き出した。
駅に着いたものの、まだ新幹線までの時間はたっぷりあり、別に時間を変更してまで帰らなくてはならない理由はなかったため、どこかで時間をつぶすことにした。駅までの道すがら、兄にそのことを伝えると、「じゃあ俺も」と駅に隣接するショッピングモールのカフェまでついてきた。時間があるならみんなとお茶すればよかったのに、とは言われなかった。
「あ、喫煙席でいいよな」
兄が聞いてくるので、無言でうなずき、店内の奥のほうへと素早く入っていった兄の背中を追いかける。
話題は僕の大学の話、兄の仕事の話、互いの一人暮らしの話。久しぶりに会った二人は盛り上がり、なかなか話が途切れなかった。一人暮らしをするうえで、必ずだれもがぶち当たるであろう、自炊をするか否か。僕は断然しない派で、スーパーでなんやかんや食材を買っていると、結局、弁当を買ったり、外で安く済ませたほうがお得なのだと力説したが、兄はまとめ買いして、作った料理で保存が効く、と一歩も譲らなかった。そこで、僕は洗い物が面倒だというとっておきのカードを切ったのだが、それは面倒くさがるお前が悪いと言われ、しまいには、掃除してんのか? ゴミちゃんと出してるか? と、自滅する結果となってしまった。
分が悪くなった僕が黙っていると、兄はたばこに火をつけ、ふーという音とともに煙を吐き出した。煙はゆらゆらと空中をさまよった後、空調の風によって軌道を変えた。
「たばこ、吸うんだね」
「お、嫌だったか? 悪い」
「いや、そうじゃなくて。吸ってるとこ初めて見たからさ」
「そうだっけか? 別に隠してるわけじゃないんだけど」
兄はジジジと赤く燃える先端を見つめ、ストレス社会だしな、と付け加えると薄く笑った。
兄の口からストレスという言葉が発せられたことに若干驚いたが、まあ兄にもストレスの一つや二つあるのだろうと、妙に納得してしまった。
「ねえ、僕にも一本ちょうだい」
僕がねだると、兄は別段驚くこともなく、手のひらサイズの箱を差し出してきた。
ありがたく一本頂戴すると、兄はもう一度、ストレス社会だしな、と笑った。
兄はいつだって理想だった。二つ上の兄は常に僕の先を歩いていて、それは年齢的な意味ではなく、すべてにおいて。小さいころから勉強ができて、成績が悪くて怒られている姿なんか見たことがないし、スポーツもできた。そんなだから、もちろん友達も多く、よく家に友人を連れて来ていたし、遊びに行ったりもしていたようだ。学校では何かの委員長をやっていて、みんなの中心にいた。それは家族においても同様で、いつだって中心で笑っているのは兄だった。
だから、当然比べられる。
こんなに完璧な人がすぐ近くにいたんじゃたまったもんじゃない。散々兄と比べられ、そして結果は明白で、だから、僕は劣等感に苛まれ、そしてだんだん時間をかけて性格がねじ曲がっていった――というわけではない。
何が原因が、性格に多少癖があるのは認めるが、それは決して劣等感からくるものではない。もちろん兄弟だからある程度の比較はされる。それは仕方のないことだ。でも、僕の周りの人はとてもいい人で、父も母も兄を極端にひいきする、なんてことはなく、僕のことを愛してくれていると感じる。 しょっちゅう怒られていたし、二十歳になった今でも、よく怒られる。でもそれは、僕が抜けているからだ。まだ小さいころは、怒られると、なんで僕だけなんて思ったりもしたが、冷静に考えれば当然だ。兄は怒られるようなことを何一つしていないのだから。
そして、誰より兄本人がとてもいい人だ。ずるいほどに。
怒られたときは、こっそり僕のことを慰めてくれたし、成績が悪かったときは、自分の勉強を放り投げ、僕に付きっ切りで教えてくれた。
高校生一年生のとき、一度だけ本気で家出を考えたことがある。何が原因かは忘れてしまったが、母と言い争いになり、いよいよ頭にきた僕は「出てってやる!」と叫んで、部屋に戻り、荷物をまとめ始めた。乱雑に着替えなどを鞄に詰めているときだ。兄が優しく扉をノックした。
「入るぞー」
返事を待たずに入ってきた兄は、僕のほうを一切見ずに床に座り込むと、本棚を物色し始めた。
僕は無視していたが、ついに兄が本棚から勝手にマンガを取り出し、ゲラゲラ笑いながら読みだしたので、口を開いた。
「なに?」
きっと、ちょっと怒った口調になっていたはずだ。それでも兄はマンガから顔を上げない。
苛立っていた僕は、兄からマンガを取り上げた。
「おい、なにすんだよ」
「用がないなら出てってくれないかな」
床に座り込む兄を見下ろす形で言った。
「うーん、別に用はないんだけどな」
僕のことを見上げると兄は言った。
「マンガ読みたいな、と思って」
そう言うと、僕に向かって手を差し出した。
相手にするのが馬鹿らしくなり、差し出された手にマンガを渡すと、兄は嬉しそうに「ありがと」とつぶやいた。
無視して続きにとりかかろうとすると、兄がふと顔をあげ、不思議そうに僕を見ると言った。
「ところで、お前さっきからなにしてんの?」
そう言うと部屋を見渡し、散らかっていることにようやく気付いたようで、的外れなことを言い出した。
「模様替えか? 兄ちゃん手伝ってやろうか?」
「違うよ。いいから出てってくれないかな」
「ああ! 彼女が来るんだな!」
大声で言うと、何かに気づいたように、はっと口を手で押さえると小声で聞いた。
「まだ内緒か?」
ため息をついて、あのね、と言いかけたが、目をまん丸にして、やばい?と眉を動かす兄の顔を見た瞬間、不覚にも、ふふっと笑ってしまった。
だから兄はずるいのだ。
原因も覚えていないのだから、どうやって収集をつけたかも覚えていないが、この後、僕は家出することなく、母親と仲直りした。兄とのこのやり取りだけはよく覚えていて、たしか、この後しばらくの間、兄は嬉しそうに、いつ彼女連れてくるんだ? と尋ねてきたはずだ。
なんでもできるくせに、ちょっと天然で。そんな兄に、僕は何度も何度も救われてきた。だから劣等感なんて一度も感じたことはない。勉強ができて、スポーツができて、みんなの中心にいて、そんな羨ましいような人が兄であるということが僕の誇りで、そんな兄が大好きなのだから。口にはしないけれど。
新幹線の改札を抜けると兄とはお別れとなった。僕は東京方面へ、兄は大阪方面へ。
なんだかんだで、長時間たわいもない話をして、時間はあっという間に過ぎた。気づいたらお互いぎりぎりの時間になっていたので、少し急ぎ足で改札まで歩いた。
「明日からまた学校か」
「俺、明日休み―」
僕がそれとなしにつぶやくと、兄は嬉しそうに言う。
あっそ、と適当に流すと、兄はちらっと電光掲示板の時計を確認した。
「じゃあ、また。元気でな」
兄が手を軽く上げた。
「うん、じゃ」
僕はそっけなく言うと、くるりと向きを変え、ホームに上がる階段に向かって歩き出した。途中でちらっと振り返ると、兄がさっきと同じ場所で大きく手を振っていた。よくこんな公共の場で恥ずかしさを感じることもなく、手を振ることができるものだ。僕は心の中で悪態をつきながらも、ニヤついてしまわないように、唇を軽くかんだ。
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