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【小説】3回目のデート

 やばい、選曲ミスったかもしれない。
 正志はマイクに向かって声を張り、画面に流れる歌詞をなぞるが、意識は完全に美咲の後ろ姿に集中していた。
 都内のカラオケボックスはとんでもなく窮屈だ。ソファに並んで座ったときに、液晶画面が右斜め前、いや、もうほぼ右に位置しているので、画面を観るとき、首を右に向けるか、体ごと右を少し向かなくてはならない。曲が始めれば、正志の右隣に座った美咲も必然的に右を向くわけで、そうすると、正志の位置からは、美咲の束ねられた髪と、小刻みに揺れる小ぶりなイヤリングしか目に入らないのだった。暗い部屋の中で、唯一明るい画面の光が、美咲の顔を照らしているはずだが、正志はその表情を確認することはできない。だからこそ、曲ではなく、美咲の後ろ姿に集中しているのだ。わずかな動きでさえ、見逃すまい、と。
 正志の選んだ最後の曲は、ラブソングだった。静かな曲調のバラードだ。終電前に一時間だけ、と駆け込んで入ったカラオケは、退出の時間が迫っていた。すると美咲が「次で最後だね、正志くん。とっておきのやつ、よろしく」と言うものだから、慣れた曲がいいだろうと言うことで、友達とカラオケに行くと歌う曲を深く考えずに入れたのだ。それが、どうだろう。普段、歌うときは気にならないというのに、画面に表示される文字を、今のこの状況とセットで改めて認識すると、その言葉のひとつひとつが、くっきりと、いやに生々しく意味を持つのだった。
『僕は君だけを』
『君が、好きだ』
『君しか見えない、君だけしか』
 こんなに、ベタベタであからさまな歌詞だったのか。画面に表示される言葉が、実際に自分の声で口から発せられるたび、カーッと体が熱くなり、額に汗が滲むのがわかった。
 カッコつけすぎだろう、これは。
 曲が始まり、歌い始めてすぐ、正志は選曲ミスを後悔した。明るい曲やノリのいい曲ならば、聞いてる側も合いの手を入れたり、手拍子を打ったり、いくらでもやりようがあるものだ。それがどうだ。こんなベッタベタなバラードを歌われたら、ただ黙って画面を見つめることしかできやしないじゃないか。感動するほど歌が上手ければいいのかもしれないが、こちとら、ちょっとカラオケ好きな、ただの大学生だ。高い音は出ないし、音程もたびたび外す。だからこそ、正志は美咲の後ろ姿から、ほんのわずかなリアクションでもないかと、様子を伺っているのだった。しかし、美咲はわずかに左右に揺れるだけで、表情はもちろん、感情のかけらも読み取れない。揺れるイヤリングは先端に小さめの石が施されているようで、同じ大学生にしては、なんだか大人っぽいな、とまるで関係のないことを考えたりした。
『愛してるんだ、本当に』
『君と出会ってしまった』
『Love you, only you』
 こんなの聞かされてどうしろと、いうのだ。ここまでベタベタだと気持ち悪いぞ。
 正志は気に入っていた、この曲の歌手を思い浮かべ、ほんの少し胸の中でなじった。
 『君が、好きだ。君が、好きだ。君が、君だけが』
 曲はサビのフレーズを繰り返して、静かにアウトロにうつる。同時に正志はマイクを持つ手を静かに下げ、乾いた唇を歯で少し噛んだ。美しいピアノの音が静かに奏でられる。歌っているときには気にならなかった、隣の部屋の叫び声にも似た大声が響いてくる。ピアノの音はサビのメロディを何度か繰り返した後、余韻を残して、一瞬の静寂を連れてきた。美咲は画面を見つめたまま、何も言わない。隣の部屋から再び叫び声と、ギャハハという笑い声が聞こえてくる。薄い膜を張ったような部屋の外の騒々しさの中、液晶画面には曲のタイトルと歌手の名前が表示された。終わった。正志は、口を間抜けに少し開けたまま、顔は画面に向けているが、目線はしっかりと美咲の後ろ姿をとらえていた。美咲は動かないままだ。
「正志くん、カッコつけすぎだよ」
 こんな風におどけてくれれば、どれだけいいか。正志は美咲のリアクションを祈るような気持ちで待った。
 次の曲は入っていないので、しばらくすると、画面には女優だかタレントだかの女の人が、アイドルグループにインタビューする映像が映し出された。一瞬やってきた静寂は、あっという間に華やかな光と音にかき消され、先程のバラードの余韻を引きずった部屋の中は、そのギャップで奇妙な居心地の悪さが漂った。
 美咲は顔を画面に向けたまま、というか正志の歌を聞いていたときから、微動だにせず、口を開かない。相変わらず表情は読めないままだ。
 あれ? これは俺が何か言うところか?
 隣の部屋から女の「やばーい!」という甲高い声が聞こえてくる。
「あ、のさ——」
「私、トイレ行ってくるね」
 奇妙な間に耐えかねた正志が口を開きかけたが、それを美咲が、ピョンっと立ち上がり遮った。半開きの口で間抜けに見上げる正志の顔をみて、美咲はニコッと笑うと、部屋を出て行った。
 えっと、え?
 良いにせよ、悪いにせよ、何らかのリアクションがもらえると思っていた正志は困惑した。
 あまりのカッコつけ具合に呆れてしまった、それとも笑いを堪えるのに必死だったのだろうか。思いっきり馬鹿にされるくらいの方が逆に気が楽だったかもしれないな。……まさか、帰ってないよな。
 このような経験の少ない正志にとって、美咲のこの行動の意味を理解することは至難の業だった。ぐるぐると頭の中を様々な可能性が駆け巡る。部屋をでるときに美咲が見せた笑顔が、完全に気持ち悪がられたわけではなさそうだ、という唯一の救いであった。
 わからん。
 正志は、ようやく変に緊張していた体の強張りをゆるめ、ずるずると背中をソファの背もたれに預けると、天を仰いだ。
 正志は、一日を振り返った。ずっとタイミングを伺っていた今日一日を。
 
 この日は美咲との3回目のデート。正志は今日、勇気を出すぞと、決意してこの日を迎えていた。だが、思い返せば、一日中空回りしていた気がする。
 待ち合わせのときも、映画を並んで観ているときも、晩御飯を食べているときも、正志はソワソワと落ち着かなかった。告白するぞ、と意気込んだのはいいものの、それをどこで、どのタイミングでするのか、そこまで考えが回っていなかった。
 待ち合わせでいきなり告白。でももし振られたら、そのあとはどうなるの? 解散? 映画の途中は手を繋ぐの? でもまだ付き合ってないのに手を繋いでいいの? 食事中は変だよな。口に食べ物が入っててモゴモゴしてるときに、「ふひです、ふきあっえうあぁい」なんて間抜けすぎるよな。帰り道だ。この時しかない。あ、でも結構まわり人がいるかもな。え? あれ? 告白ってみんな、どこでするの? どのタイミングでするもの?
 一日中うわの空で、映画にも食事にも会話にも集中できずに、それでもタイミングを図りかねて、最後の一歩が踏み出せずに時間だけは無情にも過ぎ、あっという間に帰り道だ。映画の内容も、食事の味もほとんと覚えていない。一日中どこか体が強張り、うっすらと汗をかいていた。そうして、駅に向かう道すがら、お互いに会話が盛り上がるわけでもなく、人一人分、不自然に間を開けたまま並んで二人は歩いていたのだ。
 ここか? 手を繋ぐのか? いや、でも。
 何も行動を起こせないまま、最後の一歩がどうしても踏み出せないまま、丁寧に舗装されたアスファルトの歩道を睨みつけながら正志は一人、寒い冬の気温に反して汗を相変わらず滲ませていた。駅に近づくにつれ、アスファルトは綺麗に舗装されている。その取り繕うかのように、駅周辺だけ舗装されている状況に、意味もなく苛立った。
 そんなとき、ふといやに発色のいいネオンに囲まれたカラオケの看板を目の端にとらえた。焦る正志は苦肉の策で、看板を指差し、「ここ入ろう。一時間だけ。ね?」と半ば強引に時間稼ぎをしたのだ。その瞬間は、とにかく時間を稼がなくてはと必死だったので、考えが至らなかったが、今ひとり少し冷静に考えてみると、あのとき自分が発したセリフは、何やら勘違いされてしまっても仕方のない様子だっただろうなと、思い返すのだった。 
 液晶画面の中では、アイドルの一人が、フリップを効果音とともに胸の前に仰々しく突き出し、それに合わせて、笑い声があがっていた。隣の部屋からは相変わらず、騒々しい音が壁伝いに響いてくる。
「もう、時間がないぞ」
 正志はソファに完全に預けていた体を少し起こし、ひとりつぶやいた。
「今日、告白するって決めてきただろ」
 扉のすりガラスでぼやけた、部屋の外の白い光をみつめる。
「情けない。何をビビってるんだ」
 正志は、正直告白に自信がなかったわけではなかった。むしろ、美咲は確かに正志に対して好意を持ってくれているとすら感じていた。成功率でいえば、九割成功するのではないかと、ふんでいた。何の根拠もない計算だが、それでも。しかし、たった一割の最悪の可能性を必要以上に怖がってしまい、その恐怖が最後の一歩を妨げていた。
 言うぞ。帰ってきたら、トイレから帰ってきたら、言うぞ。男だろ、ウジウジするな。こんなのは気の持ちようだ。ビビるな。自分の意思で、自分一人の意思で、踏み出すんだ。もう、後がないのだ。駅はすぐそこだし、終電も近い。ここを逃したらもう、チャンスはないのだ。タイミングだ何だと言ってる場合ではない。なにより、今日は3回目のデートなのだから。
 正志の頭の中に、何度も隅から隅まで読み込んだ、デート完全攻略マニュアルのウェブページが浮かぶ。そのページの下の方。最後の辺りには、赤字で強調するように『告白は3回目のデートが吉!!』と、でかでかと書かれているのだった。
 ガチャリとドアが開き、外からヒットチャートをバックミュージックに美咲が入ってきた。ふわりと空気が入れ替わる。しかし、扉が閉められると、部屋の中に美咲だけを置きにきたかのように、すぐに元の空気に戻った。先ほどと違うのは、そこに美咲がいることだけだ。
「すこし迷っちゃった」
 えへへ、と美咲はおどけるように笑った。
 正志は覚悟を決めた。背筋を伸ばし、美咲と正面になるように体の向きを右に向け、ふうっと息をすう。
「美咲ちゃん、話があるんだ」
「なに?」
 美咲が顔を正志に向ける。その表情に何かを感じ取ったのだろうか、空気が少し締まった気がした。隣から、大きな歌声と大勢の合いの手と、それからタンバリンの音まで響いてきた。液晶画面の中ではパンクバンドのライブ告知をしている。
「俺は——」
「あ、そろそろ時間来ちゃうよ」
 美咲がプイッと顔をカラオケの伝票に逸らし、正志の言葉を遮った。
「ほら、もう行かないと」
 美咲が伝票に記された時間を指で示す。
 残り時間は二分、ここまでギリギリになってしまったのは、意気地のない、自分のせいだ。正志は焦っていた。
「うん、わかってる。でも、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ。あのね——」
「もう行かないと、ほらとりあえず出ようよ」
 美咲は再び正志の言葉を遮ると、有無を言わせず、立ち上がった。
「あ、う、うん。そうだね」
 一拍、間を置いて、正志はかろうじて声を絞り出した。そこまでされると、先ほど腹を決めた正志の覚悟も、しゅるしゅると縮んでしまうのだった。
 美咲に遅れて、正志も立ち上がりコートを羽織る。先にコートを着終えて、カバンを手にした美咲は、「よし、いこう」と一切の余韻を残さずに、部屋を先に出て行った。

 レジのあるフロントまで、一歩前を歩く美咲の背中を見つめながら、正志はずるずると身体を引きずるように歩いた。重い。全身に力が入らない。
 これは、だめだった、のか。
 一度ならず二度も、話を遮られてしまった。それに美咲もわかっていたはずだ。何となく、この話が告白であると、空気を感じ取ったはずだ。それを遮った。
 正志の頭の中に再び、『告白は3回目のデートが吉!!』という赤い文字が浮かぶ。奮い立たせた気持ちはすっかりとしぼんでしまい、それでも完全に消滅するわけでもなく、正志の頭の中に、赤い文字列とともにぶらりと情けなく吊り下がっていた。
 前を歩く美咲の背中から感情を読み取ることはできなかった。嬉しいのか、恥ずかしがっているのか、照れているのか。面倒臭がっているのか、とにかく早く帰りたいのか、気持ち悪がっているのか。美咲の後ろ姿から表情や感情を読み取れないのは暗いカラオケボックスの中でも、白く照らされた蛍光灯の下でも変わらなかった。
 フロントでは大学生と思しき五人のグループがレジの前で会計をしていた。一人の金額がいくらかの計算で少し手間取っているようだ。お酒も入っているのだろう、「だーかーら、ひとり2000円だって」「ちげーよ、お前。こいつ前の店で払ってないんだって」と、もうしばらく時間がかかりそうだ。カウンターの中に立つ、髪を七三分けにした店員の男性が、申し訳なさそうに目で合図してきた。
 いえいえ。こちらも目線を下げ、そう伝えると、正志は大人しく大学生のグループの少し後ろに美咲とともに並んで立った。盗み見るように、右を向くと美咲は大学生のグループをじっと見つめている。しかし、迷惑だな、とか、早くしてくれないかな、といった感情ではないように思えた。まぁだからといって、では美咲が今どういう気持ちなのか、というところまで理解できるほどではないのだが。ただ、美咲の意識が、ここではないどこか別の場所にあるのではないか、とぼんやり正志は思った。
 結局、後ろ姿だけでなく、実際に顔を見ることができたところで、正志に感情を読み取るほどの恋愛経験値はなかったのである。お互いに立ったときの目線がほとんど変わらない。美咲は女の子にしては、ちょっと背が高くて、正志は男にしては、ちょっと背が低かった。例のウェブページには、女子が交際相手に求めるポイントの第4位が自分よりも身長が高いことだったなあ、と正志は情けなく思い出した。
「さっきの話だけど」
 美咲が何の前触れもなく口を開いた。
「うえ。あ、うん」
 このまま、気まずい沈黙の中、駅まで歩き、そのままなんとなく解散するのだろうなと考えていた正志は、突然美咲が話し出したことに驚き、声にならない、間抜けな音を出してしまった。
「女の子はね、自分が大切にされてるなって、そう思いたいの」
 美咲は正志の間抜けな音に反応することもなく、正面を見据えたまま、そう続けた。正志は美咲の左側の横顔をまじまじと見つめるが、美咲の感情はもちろん、今美咲が言った言葉の意味も理解できなかった。
「そうなんだ」
 正志が発した「そうなんだ」は、意味を理解したわけではない、とりあえず会話をつなげるためのものであった。しかし、美咲はそもそも正志の反応は気にしていないようであった。
「だからね、別に焦ってして欲しいわけじゃないの」
「うん」
 正志はもう、話を聞き逃さないようにして、うなずくことしかできなかった。大学生のグループは「あー。もう埒あかないから、俺まとめて払うわ。あとで計算しよ」と、どうやら先に会計を終わらせることにしたようだ。
「今日だったとしても、それは良かったんだけど、でも別に今日でなくても、それはそれでいいの。次のときでも、その次でも」
「うん」
「ほらっ。夜景の見える高級レストランなんて無茶なお願いしてるわけじゃないんだし」
「え? う、うん」
「でも、やっぱり適当に入って、隣から酔っ払いの大声が聞こえてくるような場所は、ちょっと嫌かな。女の子って意外とそういうの気にするんだよ」
 そう言うと、美咲は左を向いて正志の顔を見ると、悪戯っぽく笑った。正志は、美咲の顔を見て、何も言えずに固まってしまった。
 少しの間を置いて、正志が口を開きかけたときに、七三分けの店員から「お待たせしました、お待ちの方どうぞ」と丁寧に呼ばれた。ようやく大学生グループの会計が終わったようだ。
 ほい、と美咲は千円札を財布から取り出し、正志に渡す。すると、ひとり先にすたすたと出口の方へ歩いて行ってしまう。「だーかーら、2000円払えばいいんだって」大学生のグループは出口の横で改めて会計の計算をしているようだ。
「大変お待たせしてしまい申し訳ありません」
 七三分けの店員は、その髪型に相応しい真面目な言葉使いで言った。
「いえ、大丈夫です」
「2320円になります」
「じゃ、じゃあこれで」
 正志の意識は完全にひとり先に歩いて行く美咲の後ろ姿に集中していた。千円札を二枚と、五百円玉一枚を店員に渡す。お釣りを受け取ると、小銭入れのファスナーを閉めるのももどかしく、小銭を押し込むようにして、慌てて美咲の後ろ姿を追いかけた。
「ちょっと、まって」
 美咲が自動ドアの手前で立ち止まる。
「準備できてからでいいの」
 美咲は前を向いたまま話す。
「特別な何かっていうことではなくて、正志くんの気持ちの準備ができてからで、いいの」
 美咲の後ろ姿から、正志は感情を読み取ることはできない。正志の恋愛経験値の乏しさゆえ、相手の感情だったり、正しいタイミングだったり、最後の一歩を踏み出す勇気だったり、それらをひとりで全て理解することはできなかった。
「だからね——」
 美咲が一歩前に踏み出す。すると自動ドアが開き、外から冷たい風が吹き込んだ。背中から店員が「ありがとうございました」と声をかける。大学生のグループが「だから、俺がさっきの店で多く払ってるんだって」と揉めているのが聞こえる。美咲が正志に向かってくるりと振り向く。
「いつか、ちゃんと告白してね」
 美咲はそう言うと、すっと左手を差し伸べた。再び風が吹き込む。風は美咲の束ねられた髪の毛と、大人っぽいイヤリングを揺らして、正志のところまで届いた。美咲は、はにかむように笑う。正志はふわふわとした意識の中、美咲の元へと歩を進め、差し伸べられた手を、まるでいつもそうしているかのように、自然と握り、そうして美咲の左側に並んで立った。目線はほぼ同じだ。正志と美咲はお互いに数秒間無言で見つめ合った。
「いこうか」
 美咲が笑う。
「うん」
 正志と美咲は、寒空の下へと、手を繋ぎ、ふたりで、その一歩を踏み出した。

 
  


 

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