介護の終わりに;ちょっと休憩

記事を有料にする。その設定を、何回か使ってみた。その感想を書く。

当初、自分の書いたものの有料化は、全く思ったことがなかった。卑下しているわけでもない。自分はライターさんや、作家ではないので、有料にする必要があるのだろうか、と思った。

父親との関係について、あれこれ思い起こして書いているうちに、自分の真っ黒な父への思いだけがいよいよ書かれ始めた。

「これをだれに読んでほしいのか」
自分に問いかけた。明確な答えがなかった。

自分ですら、読みたい気持ちにならないような気がし始めた。後で読み返すときに、こんなことを考えていた自分をいやになりそうだ。そう思えた。

書かなければよい。その選択肢もある。

でも、父親に対する腹立たしさというか、彼の娘であるという理由だけで彼の人生に付き合う羽目に陥り、自分の人生を考えることさえも罪状を持って償うように、と彼から突き付けられていた、そうとしか思えなかったし、どう考えてもそれ以上好意的に考えられない感情を、書かずに、表現せずに抑圧し続けることが、私にはできない。

公開設定を考えると、これを無料で垂れ流すのは、害悪のような気持がしてきていた。

有料化は、壁だ。お金が壁になる。なんだか変な気もする。だって、お金を仲介して人は交流したのに、私は、お金を壁にして自分の感情をいやらしく流さないようにした。

その壁の高さがどのくらいが適切なのか、今も試行錯誤中。

読んでもらわないほうがいいのかもしれない。そうなると、見上げるような壁=高額な料金設定にするといいのだろうか。たしかに、こんなに地味な記事を1万円で読もうという人はいないだろうから、それはそれでいいのかもしれない。

書いている意味がみえなくなってきそうな、そんな気がする。



「介護が終わったときにあなたの物語を書くべきだ」(酒井穣)。確かにそうだなと素直に書き始めました。とはいえ、3か月以上悩みました。