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透明な私たちのバカンス


クローゼットの奥に眠る ドレス
履かれる日を待つ ハイヒール
物語の脇役になって だいぶ月日が経つ

宇多田ヒカル・椎名林檎「2時間だけのバカンス」より

 宇多田ヒカルと椎名林檎のデュエットソングの印象的な冒頭だ。かつて同時代の圧倒的なカリスマとして一世を風靡したかれらが30代の親(母親と書いていましたが、宇多田ヒカルさんがノンバイナリーであることを公表されていることに鑑み、親に変えます。ご指摘ありがとうございます。)となり、再び出会って送り出した共作は、家庭を持つものの一時の息抜きにも、友情の形を借りた婚外恋愛にも読める。初めて聞いたときから私にとって気になる曲であり、ゆったりとしながら何か楽しいことが起こりそうな期待感のあるメロディーとともに、人生の折々で不意に意識の表層へ浮かんでくる。

 今日、数ヶ月待っていたTHE FIRST SLAM DUNKのDVD発売日、私は仕事が終わった後嗚咽しながら家に帰った。2月28日現在5本公開されている、円盤の販促動画を見て。最近バスケの記事を読むと10秒で涙ぐむくらい涙腺がゆるいんだけど、残念ながら感動の涙ではない。私は30代の女性ファンで、まぁごらんのとおりオタクだ。動画ではファンがDVDを見て、またバスケを始めたくなったり、自室でいそいそと届いたディスクを手に取ったり、DVDが届く期待感を盛り上げる。しかし、そこで描かれる"多様な"ファンには私のような中年女はいない。”母親”なら出てくる。ただし趣味に興じる夫や子の背景として淡々と家事をこなしている。私や彼女たちだって、休みの日に興奮に任せて黙って家を飛び出してシュート練習したいし、晩ご飯の用意なんかほっぽり出して開封の儀を執り行いたい。去年の夏までに何度も足を運んだ映画館はいつも、自分とそんなに変わらない年代の女性客が多かったように思う。記録的な興行収入を支えたのは、動画に出てきたような中年男性や若年層だけではなく、中年女性ではなかったのか。透明化された私たち。そういうことを考えながら夜道を歩いていると涙が出てきた。知ってた。ソータがカオルさんを差し置いて「この家の”キャプテン”になる」って言った時から知ってた。「行け!リョータ!」と叫んだのがカオルさんではなくアヤちゃんだった時から。知ってたけど悲しかった。(余談ですが「行け!リョータ!」の後の「男だろ」は作中一番外すべきセリフだったと思っています。ちんことかはどうでもいい。)

 こういうなんとも言えない部外者感というか、身の置き場の無さを感じることは別に珍しいことではない。Bリーグの観戦でもしばしば感じながら、なんとなくふんわり寂しい気持ちを味わってきた。今日、ザファの件に触れて相互さんのポストに気になる言葉があった。ガチ恋勢、親子連れの母親、それ以外に女性客の居場所はなく、どこまでも透明化されている。もっと正確に言うなら「それ以外の女性ファンは想定されていない」、と。私も同意見だ。推し活だとか人気投票で疑似恋愛的な消費が後押しされたり、「今のプレーを子供たちに見てほしい」と言われるたび、ああ私は客としても主役ではないんだと思い知るような小さな痛みがある。選手を目指す若者でもバスケ経験者でもなく、特定の選手に肩入れしているわけでもなく。ただ観戦を楽しむうち選手に愛着を持つようになった自分は一体何なんだ?女が応援に行けば顔ファンと呼ばれ推し活とくくられ、屋外コートで遊ぶのも肩身が狭い。ひと回り以上年下の相手をカッコイイとかきれいだとか言って入れ込んで、選手からしたらひょっとしてキモイんじゃないかという懸念も常に頭の片隅にある。そのことを気に病んでいる自分が確かにいる。ひとにどう見られるのかというよりも、それを内面化した自分自身の視線を気にしているのだ。
 もっとも、会場に行けば観戦を楽しんでいるたくさんの成人男性たちもファンとして言及されることは少ないように見える。彼らもこの気持ちを感じているのだろうか。自分たちのことを何だと思っているんだろう。私はそれと同じになれるだろうか。男も女もない、単なるファンって何だ?そういうことをぼんやり考えながら観戦するうちに、自分の髪型や服装がますます女性っぽさを排除した方向に向かってきているのに気付く。綺麗に化粧して長い髪を巻き、ヒールとホットパンツで細い脚を強調して闊歩する若い女の子たちと対比するかのように。女のままでは”普通に”応援することが認められないから、いっそ女を脱ぎ捨てようとしているような気がして、砂を噛んだようなざらっとした気分になる。相手(選手)をどう見るかということが、ひるがえって自分をどういう主体としてとらえるか、ということになる。

 ザファの映画も、バスケの試合もだいたい2時間くらいだ。2時間だけのバカンスを、私たちは透明になって楽しむ。日常とは隔絶された誰もいない砂浜で、ひそかに燃える心を分け合う。そこでは自分が女か男かも重要ではない。日常の母や妻や女を脱ぎ捨てて、ただのわたしとして裸で楽しみを求める。そのように透明になりたい気持ちと、なぜ透明にならないと楽しめないのか、私は透明にならなくてもいいはずではないのかという気持ちがせめぎ合っている。

 帰宅すると郵便受けに不在票が入っていてちょっとほっとした。ちょうどいいから明日再配達が届くまで頭冷やそう。…と思ったら靴を脱いだ瞬間ピンポン鳴って、配達員の人が戻って来て配達してくれた。私、だいたいこんな感じだ。さっきまでは未開封のまま、ご意見をしたためた手紙と一緒に東映アニメーションに送り付けてやろうかなんて思ってたけど、実際手元に届くとそんな気も揺らいでしまう。私が愛した物語とキャラクター達が変わらずそこにいる。バスケ観戦とハンナリーズの応援を楽しむ毎日のきっかけをくれたのは間違いなくこの作品だ。作り手側も性別年齢属性問わずそういうファンが増えることを期待しているのだと、これまで信じてきた。けど、どうやらそれは間違っていたらしいというだけの話だ。相手がどういうつもりでも私の愛は私のものだから、手放すつもりはない。一方でファンの自分をどう扱うかは、これからしばらく考えていくことになりそうだ。今シーズンが終わるまでに答えが出ればいいなと思う。


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