「発達障害」と診断された自分にとっての「共感」

自分はWAIS-IIIとかいう知能検査を受けたり、長期間の診察を受けた結果、「発達障害」と診断されている。
そんな自分が診察のなかで、主治医に話したところ、「その内容は発達障害への理解に役立つから文章に起こして共有して欲しい」と言われた内容があった。
そこで、そのうちの一つを以下に書き出す。

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発達障害には、共感能力が低いという特徴がよくみられるらしい。

最近、友人と以下の様なやりとりがあり、そこで自分の共感能力の低さを感じた。

友人「今日残業なんだ」
自分「なるほど、残業があるんだ」
友人「……いいよ、もう残業にも慣れたから」
自分「それはダメだ! 残業に慣れるなんて、体を壊すかもしれないじゃないか!」

そのあと色々話をしたところ、友人は最初の発言で簡単でもいいから共感を示して欲しかったということがわかった。だが、自分がそういうそぶりを示さなかったので話を終わらそうとした。すると急に自分が食いついたので驚いたということだった。

それに対して自分は、最初の発言で友人に残業があるという事実を受け取った。しかしそれだけだった。けれど、その次の発言に対して、強い危機感を感じた。自分は「慢性的な残業は心身に悪影響を与えるから危ない」という考え方を持っていたため、友人の発言が非常にあやういと感じ、強く反応した。

自分は友人には健康でいてほしいという思いがある。だから何かあれば当然心配する。

しかし友人としては、最初の発言「今日残業なんだ」に対して共感を示して欲しかったらしい。しかし、自分がそんなそぶりを見せなかったため、どうでもいいのかな、と思ったようだった。

「友人のことを心配する気持ちは持っているが、共感を期待されているポイントがわかっていなかったため、そうとは思ってもらえなかった」という出来事だった。

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自分にとって、共感能力がどういうものなのかを、たとえ(イメージ)で説明してみたい。

周りの人たちはみんな談笑しながらキャッチボールをしているとする。
そんな中、自分にもその相手がいる。
相手は話をしながら、気軽にボールを投げてくる。
当然キャッチボールをしているのだから、自分はボールをキャッチして、相手に投げ返すのが自然なことだ。
しかし、自分には肝心のそのボールが見えていない。

このたとえにおいては、そのボールというのが、共感してほしい「感情」に相当する。

相手の言葉や動作から、どうやら自分にボール(感情)を投げているらしいことはわかる。
けれど、自分には肝心のそのボール(感情)が見えない。
だから、自分は受け取ったふりをして、ボールを投げるふりをする。パントマイムのようなことをする。
それで問題ないこともある。
だが、それがうまくいかないこともよくある。ボールが見えている相手からすれば、「こいつはボールを受け取れてもいないし、投げ返せてもいないのに、なんで投げ返したような顔をしているんだ?」と不思議に思われているらしい。

相手が「この赤くて小さいボールって、○○」などと言いながら投げてくれた時は、非常に助かる。
まず自分はそのボールを受け取ったふりをする。そしてこっそりと自分の荷物(記憶)の中から「赤くて小さいボール」を取り出し、それを相手に投げ返す。
自分にだって感情(ボール)はある。
けれど、相手が投げてくるボール(感情)がどうにも見えない。
この「相手が投げるボール(感情)が見えること」が「共感能力」であるような感じがある。

相手が「ボール投げるよ」といったような言葉や動作をしている、と気づけた時は、自分は受け取ったふりと投げたふりのパントマイムをする。
けれど、最初に挙げた友人とのやり取りのように、気づけていないこともある。
そういう時、「この人(=自分のこと)は、共感してくれないってことは、どうでもいいって思ってるんだな」と相手に思われてしまうようだ。


さらにどうやら、周りの人たちはこのキャッチボールによって、共感だけではなくて、時には情報のやり取りもしているらしい。
「言わなくても(このボール(感情)を投げたんだから)わかるよね」「大丈夫、わかってるよ」といった感じらしい。
そのやりとりだけで、今後の方針を決めたり、作業の内容を決めたりすることもあるようだ。
当人達からすれば、「だってこれ、見えているんだから当たり前でしょ」といった具合らしい。
いや、自分にはそれが見えていないのだ。わからないのだ。


「そんなことないよ、あなた(=自分のこと)はちゃんと共感できてるよ」という言葉をかけてくれる人もいるかもしれない。
そのやさしさ、そういった言葉を投げかけてくれようとすること自体は非常にありがたい。
けれどそれは、自分のパントマイムが上手だよ、と言ってもらっていることに相当する。
小学生低学年ぐらいの頃からずっと「普通になりたい、普通になりたい」と訓練してきた成果だと思う。
褒めてもらえることは嬉しくもある。
けれど、その言葉は「あなたはちゃんと見えてるんだよ」と言われてしまっていることでもある。
「見えてなくて苦労している」という自分の主張に、「大丈夫、あなたは見えてるよ」と真っ向から(やさしく)否定していることになる。
相手の言葉の内容には悪意が含まれていないということはわかるので、どうにも複雑な気持ちになる。

自分は「共感するつもりがない」なんてことは決してなく、むしろ「共感できていないことを悟られたくない」と思っている。
だから、相手にボール(感情)を投げられたらしい、と気づいた時には、必死にパントマイムをする。
不思議な顔をされることも多いが、それでも必死に投げ返そうとする意思は相手に伝わるようで、やる気だけは伝わっているらしい。


とはいえ、こういうわけであるので、人付き合いとか、人がたくさんいる場所というのは、非常に疲れる。
長居すると、気を使いすぎるせいか、頭痛がしたり、ごく軽いめまいを起こすこともある。

あるひとは「そんなに気を使わなくてもいいよ(そんな必死に投げ返そうとしなくてもいいよ)」といってくれることもある。
あるひとは「もうちょっと気をきかせなよ(ちゃんとボールを見て、ちゃんと投げ返してよ)」といってくることもある。
そういった言葉というのは、結局自分が「相手が投げるボール(感情)が見えていないから」ということが主な要因であるように思う。


こんな感じであるので、自分からしてみれば、共感能力がある人(投げられたボールが見える人)というのは、もはやテレパシー能力のある超能力者であるように思えてしまう。
とはいえ、超能力と言ってしまっては、非現実的すぎて、感覚が伝わらないと思う。

「実際に存在するらしいけれど、多くの人がそれを体験できていない」ということで似たような感じを伝えるなら、「共感覚」とかが近いのかもしれない。
共感覚を持つ人たちは、音に色を感じたり、味や匂いに形を感じたりするらしい。
自分は共感覚ではないので、言葉の上での理解はできるけれど、その感覚まではわからない。
おそらく、多くの人が共感覚に抱く感想もそういった感じだと思う。
そういった、多くの人が共感覚に感じる不思議な感じが、自分が共感能力に感じる不思議な感じとよく似ているのではないかな、と思う。

ただ、共感覚との違いは、それを皆が持っているかどうか、かなと思う。
共感能力の場合は、皆が当たり前のように持っているらしい。
そのせいか、多くの人が「人間が共感能力を持っているのは当たり前」だと思っているように感じられる。
なので、自分(とか、共感能力が低い人達)が共感できていないことに対して、「共感する気が無い」「興味・関心がない」「わかってるくせに無視している」といった、ネガティブな印象を持たれることもある。
あまりそういうことは思われたくないので、とにかく人といるときは頑張るしかないのが、まあしんどい。
泣き言なんだろうけれども。


ちなみに映画、小説、漫画などのいわゆる「物語」についても、自分は少し違った受け取り方をしているらしい。
最近になって気が付いて、自分としてはかなり衝撃的なことだった。
とはいえ、発達障害と関係しているのかわからないし、ネットを見る限りどうやらそこまで珍しい受け取り方出も無さそうなので、また別の文章として起こしたいと思う。

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