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王様のブランチからの脱出

多様のブランチに映る最新スイーツ。レモンクリームの酸味がテレビ越しでも伝わってくる。味覚や嗅覚を刺激するビビッドで鮮やかなクリームの色から目を逸らすと、窓の外には水田に群れる苗が先週よりもまた一つ背を伸ばして夏の風に揺られている。

この街に最新スイーツは届かない。東京を発端に都市がカヌレで賑わう頃、道の駅から2キロ離れた路面に小さなマリトッツォの専門店ができて、「ああ去年だっけ、一昨年だっけ、こんなスイーツ流行っていたね」と一度だけ食べてみたが別に美味しいものでもなく、マリトッツォはテレビの中にいたから美味しかったのだと僕が気づくのとそのお店が潰れたのはどっちが先だったろうか。また来年には同じ場所に誰かがカヌレ専門店を築くのだろう。上京する前には生キャラメル専門店があった気がする。

数年前にテレビで見たものが、忘れる頃になってこの片田舎に届く。「もう誰も興味ないのになんで今更お店を開くのだろう」と思うが、母が「これテレビでやってたやつじゃない!?ついに食べられるね〜!」とはしゃいでいるのを見て、テレビで見たものを享受したいというその純粋さと素直さに驚くと同時に、なるほどどれだけ遅れても一度だけでもテレビの中に存在していたパラレルワールドを体験することに価値があるのかと知る。

それでも一度食べたらもう二度目は求めず、気づくとすぐにお店が潰れているのは、流行ものはそれそのものに価値があるわけではなく、メディアやSNSが一丸となって「今はこれに価値がある」と互いに言い聞かせあって価値を担保しなければ特段魅力はないからだろう。

流行が去った時に急に皆がそれを求めなくなるのは、商品の魅力が無くなったからではない。幻想が解けるからだ。ハナからその商品に魅力などない。みんなで魅力があると思い込むお祭りを開催していたのだ。みんなで作り上げた幻想は人数が増えるにつれて真実のように見える。
夏祭りの屋台が解体され、ただの木材に戻る時、疑わしい衛生環境下で振る舞われる家庭でも作れそうな飯に割に合わない金額を払うことを誰がするだろうか。

数年おきに現れる流行のスイーツに、スターバックスの新作フラペチーノ。生キャラメル生チョコ生どら焼き生チーズケーキ生ドーナツ。生つけときゃなんでも良さそうだ。

東京に住む従兄弟のSNSには最新の流行スイーツ。それがない田舎は豊かさで劣っているのだろうか。最新スイーツにたどり着ける人とたどり着けない人。どちらが豊かかと問われた時に即座に「たどり着ける人!」と即答できる人は共同幻想を信じ込む力に満ち足りているので是非とも新興宗教への入信をお勧めしたい。

この1ヶ月半ほど、テレビをやめて、SNSやYoutubeもやめて、巨大看板も中吊り広告も宣伝トラックも巨大モニターもないこの片田舎で、広告を見ることが極端に減った。

本を読む楽しさ、コーヒーを淹れる15分、蝉の鳴き声で目を覚ますこと、おばあちゃんの畑を少し手伝ったり、畑で採れた野菜を今日はどう食べようか相談する夕飯前。誰かに指図されて「これが豊かな暮らしだよ」とそれらを目指しているわけではないのに、ここ数年で一番幸せを実感している。

広告は僕達に道の豊かさを届けてくれるはずではなかったのか。
街中の広告やマスメディア、SNSで作り出す共同幻想的な豊かさは一旦誰を幸せにしているのだろう。

みんなで仮想的な豊かさを作って、経済をひとしきり回したら次の仮想を作り出す。このサイクルが行き着く先に本当の豊かさがあるのかわからなくなった。広告代理店の懐を潤わせ、偽の経済成長を作り続けるこのラットレースからの脱出をただ一人試みる。

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