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大人への不信頼との付き合い方を考える夜

近頃、どうも大人への信頼感の無さに歯止めが効かないようである。
当然私もその不信頼の対象であるわけだが。子供の頃は30歳というともっと大人なんだと思っていたなんていう話はありふれているが、実際そういう感覚は自分の中にも存在している。

スマホを開けば、ガラクタのような言葉が無限に連なる。存在しているのかしていないのかわからない人間ばかりである。思うに、現代の言葉には文脈を感じられないし、リアリティがない。実際の人間を目の前にしたら到底吐くことのない言葉ばかりを平気で書きつけ、人殺しをしても、不正をしてもあっさりとんずらというわけだ。逃走する人殺しも、承認欲求の奴隷と化したみっともないお猿さんたちも、ヒューマニストも一堂に介して、一体何がそんなに楽しいのか。そういったものは相手にしないのが賢明だとわかっていながら自分もそういった社会の一員なのである。私はお猿さんを見下しているお猿さんのようだ。恥を知る。

そう考えると〈大人〉なんて言葉は全く無意味に感じられてくる。

資本主義が世界を覆い尽くして随分と経つのだろうが、おかげさまで私たちの共同性はどこかへ行ってしまったようで。「私たち」という感覚が消え失せ、「私」ばかりが蔓延る。個人主義個人主義個人主義。相変わらず輸入が下手くそだなぁ。権利を主張するだけのお猿さんも引き受けて考えないニヒリストも、どこにも信じるにたる要素が見つけられない。
「私」はというと演劇なんかをちまちまとやっているわけだが、とうとう山に引き篭もるようになってしまった。都市を捨てたわけではないが、無機質で個性の無い均一で大量生産なお猿さんの街で一体何と関係を結べば良いのかわからなくなった。演劇はいつまで社会学の下請けをやっていれば良いのか。物理的に距離をとってしばし考える。

おずおずと既存の社会の顔色をうかがいながら、演劇も入れてもらえますか?なんて下手にでるのにはもう飽き飽きしているし。必要なのは既存の社会が崩壊しても、維持されていく共同体、新たな社会、価値観を演劇を使って作り上げることなのではないか?いや、そもそも社会とか大衆みたいなものを前提にしすぎているのかもしれない。演劇から歴史や自然、時間や空間の外を問うような根源的、思想的な態度が刈り取られ、残ったのはアマチュアリズムとサブカルエンタメ社会学ばかり。大人たちは上り詰めた自分の椅子にしがみつき一生離すものかと躍起になっている。いやいや、誰もそんなとこ座りたくないがなとツッコミを入れたくなる。そして金の匂いのする方へ羽虫のようによっていく人々も自分には関係ないみたいな顔していてどうにも目が合わないのである。


とにもかくにも、〈責任〉とは無関係な面をした大人にだけはならないように、〈責任〉なんて言葉を聞くだけ狼狽えて素足でかけていく大人にだけはならないように。必死である。なりたくない大人になってしまった大人になりたくなくて必死に踏み止まっているのが現状。いや、もしかしたら、すでに私は退廃しているのでは、、、。

なんとかして自分の責任で戦える場所に立ちたいものです。
それで私が誰かにとって信頼にたる人間になれていない未来が訪れたら素直に反省するしかない。

(はぁ。夜に酒飲んで文章なんて書くからこんな支離滅裂になる。。。だけど時には身体(精神)から空気を抜かないと腐ってしまいそうじゃあないか。まぁ普段仲間と喋っている言語と対して変わりはしないから、テキストにする必要があったのかはわからない。)

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