諦観

書かないと発散できない
いや、書くという行為が発散するという枠組みの中で1番楽だから書く

本当は曲とか作れるようになりたい
だってかっこいいから、より多くの人に見て貰うこともできて承認欲求を満たせる
かつ歌にすると言いたいことが恥ずかしく無く伝えられる
誰に伝えたいのだろう
日々生きてて会話をしてると、自分はこう思わないけど適当に流すことや、
なんでここでそんな話するのとか、
不満がいっぱい出てくる
自分がそういうふうに思いやすい性格とか、なかなか忘れられない体質なのかもしれない
他の人が言ったことにいちいち苛立つときとか 
その場で指摘できればいいんだけど、できないその環境が壊れてもいいと思えるほど度胸がない
その場で言えないから溜まる
それを発散するにはその同じ悩みを抱えている人たちと、共有してあるあるとして昇華できると解消される
それができる一番楽な方法が書くという行為

あと、自分に自身がない
あと、単純に脳のようりょうが足りない

ただ最近書くこと以外に何かを作ろうという意識が弱くなった

なにか自分が、つくなげれば、やらなければ、気持ち悪くて寝れない日が少なくなった

諦めようと思ったから
全然スッキリしない
モヤモヤして眠れない
諦めることは悪いことじゃない

諦めるという言葉にマイナスのイメージを持っていた。

諦めるという言葉は仏教では
真理、道理
の意味がある。
真理、道理を明らかにする過程で自分の願望が達成出来ないことが分かり、納得してその思いを断ち切る
というポジティブな意味があるらしい

自分がやりたいことが自分に向いていないということに納得できなかった。
したくなかった。諦めたくなかった。
自分がどんどんすり減っていく
満足できない。

憧れはいつまでも憧れのまま
自分がそこに行くには何をすればいいのかすらわからない
他の人はこんなの片手間で楽にやっているんだろうと浅はかな考えがよぎる
自分のやることにリスクを取ろうとしない
発言に責任がない
だから喋りたくない

自分が何かをやって悪いことが起きるのなら
自分が関わりたくない

考え方を変えたい
自分が生きやすくなる考え方
今住んでる世界や苦しい状況が変わらなくても
自分の考え方を変えるだけで
世界との接し方が変わる。
生きやすくなる。
それが諦めることなのか

少し違う気がする。

目標はさらにぼんやりとしている
目標は自分を取り囲む壁のようなもので
その壁をどこからでもいいから超えてみると
そこから違う景色が見える
壁の中を彷徨う
歩き続ける
あっちへ行ったりこっちへ行ったり

大きなことを宣言したり、意気込みたくない
どうせできないから
ただやる
管理ばっかり
でもゴールが見えてないと、進めない

どうやったらゴールを決めれるんだろうか
まずやってみるか
仕事じゃないんだし
ある程度決めないと進めないんじゃない?
歩きたい
目的もなく飛び出してどうするんだ
でも

悔しい

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