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『1917 命をかけた伝令』に没入した。

 100年前の西部戦線にタイムスリップし、自分も膠着した塹壕線の中にいるのではないかと思えるほど映画の中に没入した。擬似的とはいえ、ワンショットというのは常にいつ何が起こるか分からない状況から観ている者に緊張感を与える。こんなにもスクリーンの中の世界に没入したのは本当に久々だった。

 日本人にとっての戦争といえば、第二次世界大戦における中国戦線や太平洋戦線での戦闘(大東亜戦争)が最も馴染みのあるものであり、第一次世界大戦というのはあまり馴染みがない(実際は日本は青島の戦いや欧州への艦隊派遣など、連合国側として戦っている)。
 しかし第一次世界大戦というのは人類史上初の総力戦であり、第二次産業革命による技術革新によって、それまでの戦争の様相とは全く次元が違うものであった。機関銃の出現は歩兵の戦術を根本から覆した。そして鉄鋼生産の進歩と火薬技術の進歩によって射撃精度と射程はさらに増大したことによって、塹壕地帯の突破は困難となり、前線の膠着をもたらした。戦車や潜水艦や軍用機、毒ガスなどの近代的な化学兵器はこの戦争で初めて姿を現した。そして何百万の兵隊は無慈悲にも殺戮され、見分けのつかない肉片となった。『1917 命をかけた伝令』はそんな総力戦の生々しさがスクリーン越しから嫌というほどに伝わってくるのだ。

 大規模な戦闘シーン以外は、主人公がただ歩いているだけの描写が続き地味かもしれない。しかしあの静寂と虚無こそが戦争の悲惨さを最も物語っているのではないだろうか。何を当たり前のことをと言われるかもしれないが、僕は映画として作り上げる虚構は、映像で語りかけなければ意味がないと思っている。そうでなければ表現方法は映画である必要はなく、小説でも構わないのだ。僕は軍事オタクのようなところがあるので、映画においては戦争映画というジャンルが最も好きでよく観ているのだが、それが出来てる戦争映画というのは正直多いとは思えず、特に日本の戦争映画は一々言葉で説明する映画が多い。スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』やクリストファー・ノーランの『ダンケルク』、そして今回のサム・メンデスの『1917 命をかけた伝令』はそれらとは違い非常に志の高い作品のように感じる。映画とは『フルメタル・ジャケット』であり『ダンケルク』であり『1917』なのだ。

 しかしそれにしても『1917 命をかけた伝令』は一体どうやって撮影したのだろうか。散々謳われていたワンカットというのはあくまで擬似的なのだ。それを考えるだけでもこの映画はワクワクしてくる。何より作り手側の凄い映画を撮ってやろうという気概を感じるし、そこに何か込み上げてくるものがある。
 とにかく凄まじい映画を観た。2020年はまだ始まったばかりだが、いきなり年間ベスト級の作品と出会ってしまった。

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