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医療とはなにかを考える Vol.4 『留魂録』

こんにちは。大空の下大前です。
医療とは何かを考えるブログの4本目です。
前回まで、医療を自己満足に用いてしまっていたこと。自分の自己満によって患者様を生み出していたこと。医療の正義(死なずに生きること)について。触れてきました。

どれも、自分自身が無自覚的かつ利己的に行ってきたことで、反省すべき点と、それを踏まえてこれからどうしていくかのヒントがここにあります。

と、ここまで記事を書いてきましたが、ここ数日急激に何事をもやる気を失ってまして、腑抜けたような生活をしていました。

こんなことではダメだ!と焦る自分もいて、いろいろなプレッシャーに押し潰されそうな日々です。

そうはいっても自分でも驚くほどやる気が出ないし、今月はゆっくり休めとでも言われているように仕事もここ数ヶ月忙しかったのが嘘のように予約もまばらだったので、昨日は昼からずっと本を読んでいました。

本すら読む気にあまりなれなかったのですが、その中で自分がアンテナが向いた本が、誰もが知る偉人で、僕も中学生の時に知って以来尊敬している吉田松陰先生が、処刑される前日に書かれた遺書「留魂録」(全訳古川薫氏)でした。

『身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置かまし大和魂』

有名な松陰先生辞世の句は、留魂録の冒頭に記されています。


松陰先生が死刑が決まったあとに書かれた死生観が垣間見れ、今僕が考えていたことのヒントも多く含まれていました。

とても感銘を受けた言葉とそこからの考察を書き残しておきたいと思い、今書いています。

留魂録を書かれる少し前、弟子である高杉晋作先生から「男子の死すべきところとは」との問いを受けていた吉田松陰先生が、牢獄から高杉晋作に宛てて書いた手紙にはこう記されています。


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君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。私も昨年の冬投獄されていらいこのことを考え続けてきたが、死についてついに発見した。『死は、好むものではない。また、憎むものでもない。正しく生ききれば、やがて安らかな気分になる時がくる。それこそが死ぬべき時である

世の中には、体だけ生きていて心が死んでしまってる…という人がいる。その逆に、体は滅びても魂は生きている…という人もいる。たとえ生きていても、心が死んでしまっていたのでは何の意味もない。逆に体は滅びても魂が残るのであれば死ぬ意味はある。
また、それとは別に、こういう生き方もある。優れた能力がある人が、恥を忍んで生き続け、立派な事業を成し遂げる…ということ。

たとえば、明の徐階という人は、悪い政治がおこなわれていた時、正しいことをした部下を見殺しにしている。これは酷いことかもしれない。しかし、そのあとでその悪い政治の大もとになっている人物を追放し、正しい政治改革を成し遂げた。これは、そういう生き方の一例。

また、私心もなければ私欲もない…という立派な人物が時のはずみで、死ぬべき時に死なないまま生きながらえてしまう…ということもある。
しかし、それもそれで何の問題もありません。南宋の文天祥は、元の軍隊に捕らえられ、獄中で四年間生きながらえた。これは、その一例。

死んで自分が不滅の存在になる見込みがあるのなら、いつでも死ぬ道を選ぶべき。また、生きて、自分が国家の大業をやり遂げることができるという見込みがあるのなら、いつでも生きる道を選ぶべき。生きるとか死ぬとか、それは『かたち』にすぎないのであって、そのようなことにこだわるべきではない。今の私は、ただ自分が言うべきことを言う…ということだけを考えている。

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そして、留魂録の第7章ではこう記されています。


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「留魂録 第7章」

今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
つまり農事をみると、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒を作り、甘酒を作って、村々に歓喜が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。
私は30歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なのである。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事は必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。10歳にして死ぬ者には、その10歳の中におのずから四季がある。20歳にはおのずから20歳の四季が、30歳にはおのずから30歳の四季が、50歳、100歳にもおのずからの四季がある。
10歳をもって短いというのは、夏蝉を長生きの霊木にしようと願うことだ。100歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は30歳。四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし、同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

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これらを読んで、初めに思うのは、生死を超えて自分がなすべきことを全うする松陰先生の胆力というか、迫力に圧倒されるということ。

同時に、日本を想い、未来の子どもたちである僕たちのことを想う優しさと、「君たちは真剣に生きているか?」と厳しい指導をしてくださっているようにも感じます。

自分はいままで、真剣に自分自身を考えて生きてきたのだろうか?松陰先生の言葉をみると、自分と真剣に向き合って生きていないなと感じざるを得ません。


死生観を考えていく上でも、この松陰先生の言葉は大きなヒントになり得ます。松陰先生は、生死を超越し、己の成すべきことをやりなさい。と記されています。松陰先生や幕末の時代に命をかけた方々が願った「未来」になっているのかどうかはわかりません。

170年前より今の方がいろんな面で進んだことと、それ同時に無くしてきたものも多いのは事実で、僕たちは過去の偉人から学び、敬意をもって、その思考をさらに進展させる必要もあります。

留魂録は、今を生きる僕たちに欠けているものが多々込められていることは間違いありませんが、何かを成し遂げなければ無価値なのか?という点や、この留魂録に感化された人は、自ずからそう志したのではなく、松陰先生のように生きるのだ!となる懸念もあると思います。

意図せずそうなるのと、意図的に、そうしようと意識するとでは根本的に全く違う結果になる気がします。自分ではない自分になるための努力をしてしまう弊害もあり、これは医療が、生を正義とし、如何に死を避け苦痛を避けるかが目的としてしまうことで、死への恐怖心だけが先行してしまうことと同義です。

もっと言えば、人間という生命には皆志があるけれど、志の大小で人の価値を決めることができないし、人間以外の生命である、動物も植物には人間の志とは違った感覚で生きているとも思えるし、そものも誰かの何かを批評すること自体にはあまり意味はない気がします。

ただ、呼吸し生きて死ぬこと。それが生命ともいえるのかもしれません。

事実、松陰先生が記されている
『身体は生きていても心は死んでいるように見える人もいる。』
という人は今の時代にもいると思います。

しかし、それでは意味がないのか?というと疑問もあります。

もしかしたら、一時的に絶望して心が死んでいるようにもみえるだけかもしれないし、「少なくとも心が死んでいるようにみえた人」が吉田松陰先生の目の前にいて、その人は松陰先生にとっては反面教師的に類稀な行動力源になったことのではないかと思います。
そして、その吉田松陰という人間に、心が死にそうに辛いと思っている人が勇気付けられていることもあるはず。(今の時代でも)

ということは、
お互いに人としての価値の上下があるわけではなく、その人がいて、また一方も存在することができたかもしれないわけで、もし松陰先生の周りに「生きているのに心が死んだように見える人」が一人もいなければ、吉田松陰は吉田松陰になり得なかった可能性もあるかもしれません。

僕自身は、吉田松陰先生だけでなく、幕末の時代をそれぞれの立場で真剣に生きていた人を心から尊敬しています。
やはり心動かされるなにかがあって、どれだけ死を真剣に考え、何を成すべきかを考えてきたことだろうか。死の危険を感じることが少ない現代において、きっかけはなにであれ、死を考え、生を考えることは今の僕にも、もしかしたら今読んでいただいている皆様にとっても大切なことかもしれません。


死を意味嫌い避けるだけでなく、生に執着するだけでなく、単に何年生きたかでもなく、自分なりに生を全うすること。

大切なことは、つまるところ、ただ懸命に生きること。なのかもしれません。
それが、医療を医療として成立させている働きなのだから、それが医療そのものといってもいいのではと思います。

懸命とはなんだろう?という謎も次に浮かびます。自分以外の自分になるための努力を懸命として、その努力をサボる日を懸命ではないとしたら?ここには大きな語弊が生まれる気もしますが、それすらも生命の原理原則の範疇でしかないと思います。

やはり、医療の本質は、医療的知識や技術にはなく、生命の働き(原理原則)にありそうです。今回はここまで。
次回はここからもう少し思考を深めていきたいと思います。

続く。

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