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医療とはなにかを考える Vol.6 『生を全うする』

こんにちは。大空の下大前です。

今日は、医療とはなにかを考える記事のVol.6です。

前回までの記事を書きつつ自分が何を考え行ってきたのか?を考えてきました。
人の為に…という想いの中に見え隠れする自己保身や、利己的な自分。そして、そんな自分を嫌悪して認めたくない自分。
不思議なもので、誰かの為にと相手の評価を求めて行動するとありがた迷惑になったり、なにも考えずに自分のやりたいことをやっていれば、それが誰かのためになっていたりするもので。。

「思いやり」とは、相手に自分の善を押し付けることではなくて、自分なりにどこまで相手に配慮できるか?にあって、「思いやりの見返り」を求めることとは切り離す必要があります。

自分が医療を志した理由を考えていくと、最終的に残るのは「生を全うし、有限の人生を楽しんでほしい」という想いでしかありませんでした。

このことは今気づいたことではなく、以前からあった想いではあります。

だけれど、「生を全うする」とは何をもって全うというのか?人生を楽しむとは??ここに対する理解度が低かったように思います。

人生を楽しむことが生を全うすることになるのだとして、果たして「楽しむ」ということはどういうことなのでしょうか?

そして、僕が医療者として、来院いただく方々に対し「人生を楽しんでほしい!」と言っても、まず当の僕自身が人生を楽しんでなければ話になりません。

医療者は自己を犠牲にして献身的になる姿勢を美化されることもあって、それ自体は悪くはないかもしれませんが、少なくとも「自分を犠牲にする」という自分の思いの根底にある想いとはなにか?は自分自身理解しておく必要があると思います。

さて。
人生を楽しむとなんなのか?
以前の僕はシンプルに「自分がやりたいと思うことをやる」くらいにしか理解していない言葉でしたが、今はその言葉の奥深さに永遠を感じるほど広大に感じます。

いかに自分がなにもわかっていなかったか。自分の浅はかさを自覚してからが学びです。

一般的に人生を楽しむというのは、恐らく他者が羨むようなことや、自分のジャッジで楽しいと思うことだけをやるような生き方が想像するかもしれません。
ですが、それは他者からの評価で気づき上げられた自分(人にどう思われるか)で、自分がしていることが楽しいというよりも、それをやっている自分が他人からいい感じに見られるのが楽しい。といったところかもしれません。

そして、いつしか過去の記憶の中で「楽しい」と感じたことか、嫌な経験をしないこと=楽しいこと。になり、その楽しさは本来のあなたらしい楽しさとは言い切れない可能性が高いです。

だとすると、本来の楽しさとはなんなのでしょう。

個人的な体験談で、振り返るとこんなことがありました。

僕が、身体のこと勉強して仕事として志したのは、高校3年生の時です。当時僕は野球をしていましたが、競合チームだったので、まーみんな上手なわけです。僕なんかは下の下です。おまけに身体能力のポテンシャルも低い。やってみても「できない」、どうすれば上手くなるかも「わからない」。そんな繰り返しでした。

だけど、そんな中でもどうすれば上手な奴らと競争できるか?を試行錯誤し、わからないことはアドバイスを求めにコーチやトレーナーさんに相談をしにいってました。部員100名を超える中で、レギュラーでもない僕に対して真剣に当時のトレーナーさんは対峙してくれ、あーでもない、こーでもないと一緒に悩んでくれた。そんな経験が僕が今の仕事を志したきっかけでした。

つまり、「わからない」「できない」という体験こそが、そこを埋める楽しさの入り口であり、その体験が、今の医療者としての僕の基盤になったわけで、一般的にストレスとされる「わからない・できない」ということが、僕の楽しさや、僕も知らない僕の可能性を拡げてくれた。これを楽しいと言わず、何を楽しいというのか?とさえ思えます。

わからない、できない、辛い…これが僕にとっては本来の楽しさだった。
だけど、僕もわからないことや知らないこと。知らない間に避けていました。それは、わからないことと触れることで「何もわかっていない自分」と向き合いたくなかったからだし、できないことを避けていれば、「出来ない自分」や「本当は自信のない自分」を直視しなくて済むからです。
それらと向き合いさえしなければ、なんとなくできる感じを醸し出している自分でいられたのでしょう。
しかし、もうそこでは限界があり、本当はできない、何もわかっていない自分と向き合わざるを得ない状況まできたといっても良いかもしれません。

なぜなら、そんな自分では、自分が楽しいと心の底から思える人生にはならないからです。

自分自身が人生を心から楽しい!と思えないなら、僕の元に来てくださる患者様に対して、「充実した人生を送ってほしい」などと言えないし、言葉だけでいうのは簡単だけれど、何ひとつ伝わらないと思います。
その前提の上ではじめて、医療は医療と言えるのであって、医療を自己満足のためや、見たくない自分と向き合わないための隠れ蓑として振り翳してはいけないと己に言いたいのです。

生命の働きを知り、そこに対する絶対的な信頼の上であれば、どんな医学で、どれだけ否定される医学でさえ、積極的に自由に選択していけるはずです。

今まで生きてきたように考えるのではなく。自分が考えたように生きてみる。

いくら考えたところで、過去の記憶をもとにしか考えられないし、生き方を選ぶというのは、自分の知っている選択肢からしか選べません。
今までと違う生き方をするには、今まで自分がなにを考え、どんな行動をしてきたのか。ここを理解することでしか、今までと違う生き方は出来ない。

何がわかっていて、何がわからないのか。

ここが明確でなければ前には進めないので、少しずつ自分を詳細にみつめていきます。この記事は、皆さんにとってどうかはわかりませんが少なくとも自分自身にとっては意味のある記事になりつつあります。

今回も殴り書きのような駄文になり、呼んでくださった方には感謝申し上げます。ありがとうございます。皆様にとっても何か一つでもハッとするようなことがあれば幸いです。

続く。

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