人間の命とその連鎖について思ったこと

最近、妻の祖父が亡くなった。

僕はここ数年しか関わりがなかったが、息子を連れてちょくちょく伺っていたので、それなりにショックが大きい。とは言っても、妻や家族に比べたら比ではないのだと思うのだけど。

実は、自分が「それなりに関わりがある」と感じている人が亡くなるのは初めての経験である(と思っている)。大昔、父方の祖父が亡くなったが、当時僕は小学低学年程度と幼く、いとこたちと葬儀の会場で走り回っていた。お盆や正月に行くところにいたおじいさんが「どうやら死んだらしい」ということは理解していたが、ショックはなかった。

それはきっと、それほど親しみを感じていなかったためだと思う。祖父は僕のもの心がついた時にはずっと病院にいて、あまり会う機会がなかった。たとえば父や母が亡くなっていたら、当時の僕でもかなり悲しんだと思う。「死ぬ」ということ自体はわかっていたと思う。

そこで、僕は思ったのだ。実の祖父が亡くなっても大してショックがなかったのに、妻の祖父が亡くなったときにこれほどショックを受けるのは何故だろうか、と。

もちろん、先述したように「亡くなった人との関係の濃さ」が違うというのはあるだろう。だが、僕は他にもあるのではと思った。それは、「自分の大切な他の人もいずれこうなるのだ」と想像できる年齢になったということである。

僕の母が僕を産んだ直後、母の祖母が亡くなったらしい。やはり人間は昔から、結婚して出産したあたりに祖父母を亡くすくらいのサイクルを繰り返しているらしい。親と子の年齢が25〜30歳離れているとすれば、曽祖父母の死は、自分が生まれたあたりになるだろう。つまり、自分が初めて経験する家族の喪失が祖父母の死であり、それがおおよそ結婚、出産のあたりだ。

このサイクルは、人間の寿命と、出産に適した年齢の組み合わせで、現代社会でなんとなく落ち着きつつあるサイクルなのだと思う。そして、意外とうまく機能しているのだなと思った。

妻の祖父が亡くなったことを電話で聞いた時、我が家は夕飯直前であった。連絡を聞いて妻と僕が悲しんでいた時、1歳ちょっとの息子は「お腹がすいた」と大騒ぎ。何が起こったかわからないが、早くご飯をくれ、とでも言うかのように。

それから数日、本来なら悲しみに沈むかと思われた我が家は、意外と暗くならなかった。それはもちろん、息子がそんなことお構いなしに泣いて、笑って、騒いで、抱っこをせがみ、時にはおろせと怒り、ご飯をボロボロこぼしながら食べ、腹が満ちたら寝て、起きたら抱っこをせがみ…というように、泣いて悲しむ余裕なんてなかったからだ。

誰かが亡くなった時、遺族が忙しくなるのは悲しむ暇を与えないため、とはよく言ったもので、本当に忙しいらしい。きっと、時間があれば思い出してしまうのだ、たくさんの思い出が。楽しかった思い出はより楽しかった思い出となり、楽しくなかった思い出は後悔となって遺族にのしかかってくる。

亡くなった連絡を受けた時、涙を流して悲しむ僕と妻に、息子も泣いて腹が減ったと訴えた。僕はその時、息子の泣き顔を見て「生きていれば腹が減る。前を向いて生きよう」と思ったのである。

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