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育児のハウツー情報は必ずしもいい結果をもたらすか

1.はじめに

InstagramやX(旧Twitter)で、育児、子供との向き合い方、イヤイヤ期の対応の仕方など、さまざまなハウツー情報が投稿されている。大学の保育学か何かの先生から、保育士として働いた後インフルエンサーとして活動されている方など、さまざまな方の投稿がある。

誤解を招かないために最初に書いておこう。私はそういう情報を検索して調べたり、インフルエンサーの投稿に触れて試行錯誤したりすることもないわけではない。むしろ息子が2歳くらいの時にはよくやっていたほうだとも思う。

だが最近、それもどうかな、と思う機会が増えてきた。今回はそう思った経緯や理由について、頭の中を整理しながら書きたいと思う。


2.息子が「どうしたらいい?」と聞いてきた

息子がプラレールで遊んでいた時、レールがうまく閉じなくて困っていた。「レールが閉じる」が正しい日本語なのかどうかわからないが、ここでは線路の端と端をつなげて、電車がいつまでもぐるぐる回るようにすることを意味している。

プラレールで昔遊んでいた、または大人になってから子供と遊んでいる方にはわかるだろうが、あれはなかなか難しいのだ。ただ丸にするだけなら難しくないが、あっち行ったりこっち行ったり、トンネルをくぐらせたり坂道を作ったり途中で踏切を挟んだり、、、としていると、最後の最後でスタート地点に戻って来れなくなったりする。線路を広げる場所がなくなったり、レールの数が足りなくなったりなどの問題もあるだろう。

言葉で説明するのは難しいが絵心がないと絵でも伝わらない

カーブのレールは、ちょうど8つ繋げれば円になる。つまりカーブレール1つで45度曲がるようになっていて、2つで90度曲がる。そういうことを何度も自分の手でやっていると、角度とかが小学校の算数で出てきた時に理解しやすいんだろうなあと思う。プラレールをはじめとするおもちゃは、そういう素養にもなっていると思う。

なので、私は「こうしたらいい」と自分で作ってしまわず、「どことどこをつなげたいの?」「どんな線路をつなげたらいいかな」と、意識して考えてもらうようにしている。と言っても、あまりしつこくやり過ぎるとやる気がなくなると思うので、2、3回聞いてみて反応を見ながら、私も手伝うようにしているが。

先日、同様に一緒に遊んでいた時、息子が言った。

「お父さんにやってほしい」

どうして?と聞くと、「自分には難しいからうまくできないことがある」、だそうだ。まずはそこまで息子が言語化できたことを褒めたい。「嫌だ嫌だお父さんがやって」、ではなく、理由をちゃんと答えられた。素晴らしい。親バカで結構。

まあそれはそれとして。プラレールは線路を自分で作るのが楽しいのではないか。お父さんがやったらその楽しみを奪ってしまうし、、、などと私はつべこべ考えて、そして考えを改めた。

私はゲーミングPCでやるようなゲームはやったことがないが、例えば「PCを選ぶところから楽しいんじゃないか」とか言われたらどうだろうか。いやいや、ゲームをしたいだけだから、ちょうどいいPCを早く選んでくれ、早くゲームをやりたい、という人もいるのではないか。「プログラミングはコードを書くところが醍醐味なのであって、そこをすっ飛ばしてAIにコードを書かせるなんて信じられん自分で書け」と言われたらどうだろうか。「時間をかけて本を読むのがいいんであって、要約だけ5分の動画で見るなんて言語道断」と言われたらどうだろうか。

私が高校生の頃、電子辞書を持ってきて授業で使う生徒に、先生たちは「紙の辞書の方が良い。周囲の派生語も調べられるし、最初はまず紙の辞書を使った方が、、、」と言っていた。それに近い感覚かもしれない。

そういう考え方があることも否定はしないが、大人だって過程をすっ飛ばして正解が知りたい時はあるではないか。面倒な過程を経ずに正解が得られるなら、その方が楽で、効率的に生きられるに決まっている。

ちなみに、そのとき息子には、このように話してみた。これが正解かどうかはわからない。

私「そうか、これ難しいもんね。でもお父さんだって難しいよ。グルってピッタリ戻って来ない時もあるもんね。」
息子「お父さんも?」
私「そう。難しいよ。お母さんなんてきっと、もっとできないよ笑」
息子「え〜?笑」
私「お母さん帰ってきたらこれ見せるか。それまでもうちょっと頑張るか。はやぶさ走らせるの?」
息子「こまち!」
私「はい」
息子「お母さんびっくりするかな〜?」
私「うん、きっとね。どこからやる?」
息子「ここ!」


3.育児は効率化を求めて良いものかどうか

そこまで考えてから、ふと育児や子どもとの向き合い方についてのハウツー情報に思い至った。自分の子どもがイヤイヤ期で大泣きしている時、「こうしたら泣き止むよ」「こうしたらいいかも」という情報はよくある。有名どころで言えば、「選択肢を与えて選んでもらう」とか、「楽しみを見つけて取り入れる」とか、そういうやつだ。

果たして、過程を経ずに正解を得るような、そういう子育てで良いものかどうかと、ふと思ったのである。本来、それは子どもと向き合いながら、自分で考えて試行錯誤し、その上でたどり着くべき境地ではないだろうか、と。

保育士の妻いわく、息子はそれほどイヤイヤが激しくないほうだそうだ。だからと言って別に良い悪いではないが、どうやらそうらしい。そういう我が家だから言えるだけかもしれない、ということは断りをいれておく。確かにスーパーやデパートで見るような他の子のギャーギャー泣きは、息子はしたことがない。

さて、過程を経ずに正解に辿り着くことには賛否両論があるだろう。例えば私の仕事である地盤や地震の分野で言えば、耐震基準や地盤の液状化基準、その他の数値について、「なぜこのような数値になっているのか」を知らずに計算や設計がなされて、それで建物が建って、そこに多くの人間が住んでも良いものかどうか、ということを考えてみると、私は必ずしも最短距離で正解(の数値のみ)に辿り着くことが良いとは思わない。自分なりに、「なぜこのような数値になったのか」「歴史的にどんな経緯があるのか」を納得し、理解したつもりになってから、実務につくのが良いと思っている。

もちろんこれは理想論であって、私は完璧にこれらを理解しているわけではないし、理解できるとも思っていないし、私の仕事はそれらを理解することではなく、偉い人たちが決めた基準に従って間違いなく計算することであるのも承知している。それでも、そうあるよう努力はすべきだと思っている。客先に「耐震基準のこの数値はどういう意味なんですか」と聞かれて「さあ、詳しくは知らないですが、国が定めた数字なんでそれなりに重要な意味があるはずです」と答えるエンジニアが計算し設計した建物に何の安心があるというのか。

「子育てで行き詰まった。インターネットで検索してみると、何やら有名なインフルエンサーが情報発信していた。詳しいことはわからないが、試してみたら子どもが泣きやんだ。それから、泣き始めたらそれを試すようにした。実行すると毎回泣き止んでくれる。とても助かる。」これで良いのか、ということを問題提起したい。

もちろん、多くのインフルエンサーは「そうすると何が良いのか」「どういう理由でこういう行動が良いのか」を説明してくれていると思う。しかし、視聴者はそれをみているだろうか。理解した上で実践しているだろうか。理解し納得せずにやっているとしたら、それは「スマホを見せれば子どもは静かにしている」というのと本質的に違うところがあるだろうか。「子どもをみている」「子どもと向き合っている」「子どもを育てている」ことになるだろうか。それは「子どもと時間を過ごしている」だけではないか。


4.近道を通ることの弊害

さて、話を変えてみよう。皆さんは下記の2次方程式を解けるだろうか。

$${x^2+2x+1=0}$$

こんなの中学校でやったよ、と怒らないでほしい。解法は下記の通りである。

$${x^2+2x+1=0}$$
$${(x+1)^2=0}$$
$${∴x=-1}$$

まずは因数分解である。右辺が0なので、左辺も0になるためには、$${x=-1}$$でならなければならないというわけだ。

さて、これを習った後、皆さんは「解の公式」というものを習ったと思う。それは下記のようなものである。

$${ax^2+bx+c=0(a≠0)}$$の時、$${x=\frac{-b±\sqrt{b^2±4ac}}{2a}}$$

この式に数字を代入すれば、因数分解などしなくても$${x=-1}$$が得られる。なんと!こんな簡単な解法があったとは!それなら因数分解など必要なかったではないか。

そう思ってもらっては困る。因数分解した上で右辺が$${=0}$$となるように$${x}$$の値を探す方法は、下記のように「なぜこういう方法で2次方程式の解が得られるのか」という数学の本質的な性質を理解することができるのだ。 

2次方程式の解法

でも、解が得られるならそれで良いじゃないか、という声も聞こえてくる。もちろん、それが悪いとは言わないが、問題は応用が効かないということである。解の公式しか知らない人は、3次方程式を解くことができない。なぜなら、3次方程式の解の公式は中学では習わないからだ。※私が中学生だった時は習わなかった。今、カリキュラムがどうなっているかはわからないので、間違っていたら訂正してほしい。

順序立てて、step by stepで解法を見つけることのメリットの1つは、似た考え方で他の問題に対しても解法を見つけられる可能性があることである。「3次方程式でも、=0になるように解を探せば良いのだな」というふうに。


5.遠回りしてきた人たち

最近、他にも思うことがある。便利家電である。ロボット掃除機、ドラム型洗濯機、食洗機など、便利な家電がたくさんある。例えば昔のひとにこう言われたとしたらどうだろう。

「小さなゴミ一つ口に入れないように、子供のことを思ってきれいに掃除機をかけたものだ。今の人はそんなことしないもんね」

「昔は服を1つ1つ手洗いしていたから、子供の服がだんだん小さくなっていくことを今より実感できたし、服への愛着もあった。今はそれに比べたらねえ」

別に私や知り合いがこう言われたということではないが、何にしろ、便利で効率的な世の中はその分、弊害を生じていると思うのだ。欲しい情報に瞬時に辿り着けることは、過去の人がそれに辿り着くまでに得た様々な努力や情緒を得ずしてゴールに辿り着いていることになる。

私は現在30代だが、その私でさえ、今の世の中には移り変わりが早すぎると思うところがある。AIが社会の進化を早くし過ぎているのではと思うところがある。だからきっと、年上の人は語りたがるのだ。「昔はね」「俺たちの頃はね」と。昔は昔で、遅いばかりではなかった、非効率なばかりではなかった、悪いばかりではなかったぞ、と。

6.必ずしも効率化すべきか

世の中には2つのことがあると思っている。「何かのために必要なこと」と、「それ自体に価値があること」の2つである。

例えば「生きること」はそれ自体に価値があることである。全てのことは生きるために存在している。私は趣味で音楽活動をしているが、「音楽を演奏すること」もそれ自体に価値があることだと思っている。「音楽を演奏するなら、楽譜データを入力してAIに演奏させたらいいよ」と言われてもそんなことをする気にはならない。私は「演奏すること」自体が楽しいのであって、そこに効率化を求めるのは本末転倒である。AIが演奏していて私が受けるメリットは一つもない。好きな小説家の本を読むこと、映画を見ること、お酒を飲んで気を許した知人と語らうこと、などもそれに入るかもしれない。「効率化しようとは別に思わないこと」である。それ自体が楽しく、価値があると感じているからだ。

それに対して、「何かのために必要なこと」は、例えば仕事や、情報収集のための読書など、「効率化できるならしたいこと」である。例えば私にとっては掃除機や食器洗い、洗濯および乾燥、などであり、結果のみが欲しい場合である。私はこれらの作業を別に好きではない。生きるのに必要だからやっているだけであって、しなくて良いならしたくない、効率化できるなら是非したい、という作業である。

ところが、このあたりは人それぞれの価値観によって異なるはずだ。料理をするのが趣味の人は、家庭で食事を作ることはそれほど苦でないかもしれない。綺麗好きな人なら、家を数ヶ月に一度くらい大掃除したり、きれいに保つことが苦にならないかもしれない。コードを書くのが好きな人は、プログラミングをAIに任せたりしないかもしれない。

そしてさらに言えば、「何かのために必要なこと」さえも、効率化しなくて良いのではないかと思うこともある。例えば、野球少年の泥だらけのユニフォームを一瞬できれいにできるマシンがあったとしても、それを手洗いで子供のことを思って毎晩洗って育てたことで得られることもあるはずだ。

いや、「効率化しなくて良い」は言葉が悪いかもしれない。言い直そう。「効率化できなかったとしても、それで得られることもある」という方がいいかもしれない。

それは「こんな大変なことも子供のためを思えばできる」と自分を励ましながらやった経験だったり、「こんなに頑張ってるのに子供は反抗期だし」とたまには苛立つ経験だったり、「旦那は酒を飲んで酔っ払ってるし」と苛立った経験だったり、保育園に持って行くおむつに1つ1つ子どもの名前を書き込んだ経験だったり、人それぞれだと思う。

それはいずれ、結婚式で息子から「当時はありがとう」と言ってもらえて全て報われた気になる元になったり、晩年になって当時の夫の仕事が佳境だったことを聞いた時に「当時はお互い必死で頑張ってたよね」と笑い合える元になったり、子どもが「何書いてるのー?」と近寄ってきて過ごしたかけがえのない時間になったり、ここで書ききれないさまざまな可能性につながると思うのだ。

当然のことながら、泥だらけのユニフォームが一瞬で真っ白になれば、その分子供と向き合い、家族と向き合い、ご飯を作ったりリフレッシュする時間的・精神的余裕が生まれる。おむつに子供の名前をプリントして保育園に届けるサービスがあればその手間は不要だ。これは良し悪しの問題ではない。人間は苦労すべきだということを言っているわけではなく、それぞれの生き方に対して、得られるものが違うだけではないかということを言いたい。

飛行機なら東京からすぐ大阪に行けたとしても、自動車で何時間もかけて行く間に見られる風景は楽しめない。「風景なんか要らないから早く着きたい」という人はもちろん飛行機を使えば良い。自動車でいろんなサービスエリアに寄り道するのも楽しいよねとか、そういう人は自動車でもいいだろう。お互いに得られるものはある。そういうことではないか。

話があちらこちらに行ってしまって申し訳ないが、つまり一見必要なく、効率化できるならしたいと思えることにも価値がある可能性はあるし、何十年も経ってから大切な思い出になることもあると思うのだ。それは決して無駄ではないし、遠回りでもない。それがあなたの人生には必要だったのだ。一見遠回りと思える道をあなたは通り、そこで大切な経験をする必要があった、というふうに考えることもできるのではないか。

7.生き方には自分で価値を与える

ある作業を面倒だと感じ、あわよくば省略したい、効率化したいと思っている時、その選択肢がなく、あるいは思いつかずに努力や手間暇をかけることで突破したしたとしよう。その場合、突破したあとから「こうすればよかったんだ」と気がつくと、そうできた人をずるいと感じることもあるだろう。逆に、最初から近道の存在を知っていた人は、わざわざ遠回りして結果にたどり着くことを面倒だと思ったりもするだろう。

繰り返すが、それは良し悪しではない。人間はそれぞれ、与えられた境遇の中で、最善と思われる選択肢を選んで生きている。どんな境遇で生きていくか。それはある意味、不可抗力である。どんな親のもとに生まれたか、それが都会なのか田舎なのか、金銭的にはどうか、近くの学校はどんなところか、兄弟姉妹はどうか、結婚相手はどこに住みどんな親のもとに生まれどう生きてきたか、どんなものを仕事に選ぶか、どうやって金を稼ぐか。。。

中高学校に入る時。大学に進む時。社会人になる時。結婚する時。色々と人生の帰路というものはある。上司が嫌なら転属あるいは転職すればいい。親が気に入らないなら距離を取ればいい。自分の人生の中でもある程度、自分でコントロールできるものはある。だが、ある程度にしか過ぎない。自分が思っている以上に、人生の大部分はコントロールできないものに縛られている、と思う。「自分はこう生きていきたい」という思想すら、子供時代の経験に大きく縛られていると思う。

繰り返すが、良し悪しではない。人は与えられた境遇の中で生きて行くしかできないのだ。その中で、たまたま「早く最終目的に辿り着く生き方」を多く選択できた人もいれば、そうでない人もいるだろう。それは「早く最終目的に辿り着けた」だけであって、それが良いか悪いかはわからないのだ。それで得られるものもあれば、失うものもある。

その中で、「自分の人生もそんなに悪くない」と思うしかないのだ。「なぜこんなことに。。。」と思ったとしても、それが自分の人生には必要だったと思って生きて行くしかない。それがのちに、きっと何かの糧になるから。

例え子育てが終わってから子育てのハウツー情報に出会ったとしても、イヤイヤ期が始まる前にその情報に出会いたかったのにそれができなかったとしても、それは非効率な子育てをしたのではない。その分、あなたは必死に子育てをしたのだ。

それで得られるものもあるはずなのだ、絶対に。

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