「普通」

私は「普通」「臨機応変に」「どうですか?」という言葉が嫌いである。

「普通」

私の中には「普通」という概念がある。それはあくまでも概念であり、抽象的なものである。普通に生きなきゃいけない。そういった「普通」である。先ほど概念だという話はしたが、まったくもってその通りで、「じゃあ普通ってなんですか?」と聞かれるとわからない。本当にわからない。普通は普通なのだ。それでいて私を強く縛る。とにかく私は「本来普通でいないといけないのに、普通でいることができない」存在なのだ。

「臨機応変に」

臨機応変にという言葉が本当に私は苦手である。ちょっとでも自分にわからないことがあったり、いつもと違うことがあったり、そして何より、少しでも失敗するとすぐにパニックに陥ってしまう。頭が真っ白になって、体が固まって、下手すると涙が出てくる。別に泣くようなことじゃなくても涙がでるのだ。これが本当に困る。空気も悪くなるし、周りからも「そういうやつ」として扱われるようになる。だがこの歳にもなると「そこは臨機応変に」というものが増えてくる。未だにそれができない自分が恥ずかしい。普通はできることなのにできないというのは本当に恥ずかしいし、親にも心配されている。「お前そんなすぐパニック起こして、社会でやっていけるの?」そんなの私が知りたい。大学四年生、もうすぐ社会人、今のところやっていける自信はない。

「どうですか?」

どうですか?ってどうですか…?どうですかって聞かれると「普通」はどうこたえるのか、自分がどんな回答を求められているのかわからなくて、これもまたパニックを起こす。

教員「どうですか?」

自分(どう…どう…!?なに、なにを求めているの?何が正解?)

自分「こ、こうですかね…?そ、それともこうかなとも思いますかね…?」

教員「…あーそういうんじゃなくて云々」

自分(ごめんなさい、求められてた答えがうまくでなかった。もうだめだ、終わった。絶対こいつ使えないって思われてる。もうだめだ。)涙ぽろぽろ

こうなってしまう。難しい。本当に。どうですか、という質問ではなく、「こういうことに関してどう思いますか?」と聞いてほしい。それだけでも少しはまだマシになるのにな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?