B’z『JAPANハードロックを世界に押し広げ続けるトップランナー』(前編)人生を変えるJ-POP[第26回]
たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今回は日本が世界に誇るロックバンド「B’z」を扱います。B’zはアジア圏のミュージシャンとしては初めて「ハリウッド・ロックウォーク(英語版)」に殿堂入りしたバンドであり、その音楽と実力は日本のみならず、世界から認められている存在です。彼らの30年以上にわたる活動の歴史と60歳を前にして、なおパワフルな歌声を披露しているボーカリスト稲葉浩志の歌声の魅力に迫っていきたいと思います。
松本孝弘と稲葉浩志の出会い
B’zは1988年にシングル『だからその手を離して』とアルバム『B’z』の同時リリースでメジャーデビューしました。メンバーはリーダーでギタリストの松本孝弘とボーカリストの稲葉浩志の2人です。
ギタリストの松本孝弘は、1961年生まれ。大阪府豊中市の出身。音楽との出会いは中学生の頃で、両親から誕生日にプレゼントされたビートルズのアルバムがきっかけでした。
高校になって初めてギターを弾き始め、バンドを組んであちこちの音楽フェスやコンテストなどに出演していたとのこと。高校卒業後にミューズ音楽院に進学しますが、ギターのテクニックがずば抜けていたため、プロになることを勧められ、音楽院を中退します。
その後は、音楽事務所「ビーイング」に所属、小室哲哉の音楽ユニットTM NETWORKや浜田麻里などのコンサートでサポート・ギタリストなどを務めていました。
ボーカリストの稲葉浩志は、1964年生まれ。岡山県津山市出身。津山高校から横浜国立大学教育学部に進学し、将来は中学の数学の教師になるための勉強をしていました。
音楽との出会いは、高校時代、彼が高い音が歌えるというのを知った同級生がバンドのボーカルを頼んだことがきっかけです。学園祭当日、リハーサルで歌い過ぎて本番では声が出ずに満足に歌えなかった悔しさが、その後の彼が音楽を続ける原動力になったと言います。
「ビーイング」が主催のボーカルスクール生になり大学卒業後、プロの歌手を目指していた彼のデモテープを、当時、バンドを結成するのにボーカルを探していた松本に「ビーイング」の創始者である長戸大幸が渡し、それを聴いたことが「B’z」結成に繋がりました。
稲葉の外見、歌声を聴いた松本は、稲葉とのセッションをする前に、彼しかいない、と決めていたそうで、あとは稲葉の性格が「いい人だったらいいな」と思っていたというのは有名な話です。
幸いにも稲葉は「いい人」というか、「おとなしそうな人」という印象だったとのこと。それでもデモテープの歌声で稲葉とバンドを組むとほぼ決めていたということで、セッション後すぐにバンドが結成されていたというのですから、まさに探し求めていた歌声だったのでしょう。
バンド名「B’z」の由来は2人とも明確な理由を述べていません。さまざまな説がありますが、「ビーイング」の長戸大幸によると、JTやJRというメーミングが世の中に出始めた頃で、アルファベットの最初と最後のA’zにしようと思ったが、似た名称がロート製薬の商品にあり、B’zにした、という話もあります。
たまたま…から始まった快進撃
B’zは今でこそ、シングルとアルバムの総売り上げが8000万枚以上という驚異的な数字を持つバンドですが、1988年にデビューした頃は全く売れませんでした。
彼らが売れるきっかけになったのが、当時、売れに売れていた宮沢りえのCM。1989年に彼らは3枚目のアルバムを出す前に、1stミニアルバムの録音をスタジオで行っていました。
そこにたまたま隣のスタジオで宮沢りえの出演する富士通のCM曲の制作をしていたスタッフから松本に声がかかり、新曲『BAD COMMUNICATION』のテープを聴かせたところ、未完であったにもかかわらずCM曲に決まったのです。なかなかいい曲に出会えず、考えが煮詰まっていたスタッフのお眼鏡にかなったのでした。
このCM がきっかけとなり、ミニアルバムはヒットし、翌年発売された3枚目のアルバム『BREAK THROUGH』は初登場でいきなりオリコン3位を獲得。ここからB’zの快進撃が始まるのです。
同年5月にリリースの4thシングル『BE THERE』でオリコンチャート初登場7位から始まり、6月リリースの5thシングル『太陽のKomachi Angel』でオリコンチャート1位を獲得。
1991年の8thシングル『LADY NAVIGATION』で遂にミリオンセラーを達成します。その後も順調にヒットを続け、1993年には12thシングル『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』で202万枚、1995年の18thシングル『LOVE PHANTOM』は180万枚などの大ヒットになったのです。
また、1998年に発売された『B’z The Best“Pleasure”』は500万枚、『B’z The Best“ Treasure”』は400万枚など、2枚のベストアルバムは驚異的な売り上げを記録しました。
このようにB7’zは1990年代の音楽シーンを席巻し続けるバンドとなったのです。
アジア圏初の「ハリウッド・ロックウォーク」殿堂入り
そんな彼らの存在は世界からも注目されるようになり、2000年代に入ると海外活動や、海外アーティストとの共演が増えていきます。
2001年8月の台北でのLIVEを皮切りに、香港でもLIVEを開催し、2002にはカリフォルニア、2003年には北米とアメリカツアーを大成功させるのです。
これらの活躍が認められ、2007年、アジア圏では初めて『ハリウッド・ロックウォーク』に殿堂入りを果たしたのでした。
『ハリウッド・ロックウォーク』は、過去にすでに殿堂入り済みのアーティストの推薦によって決定されるもので、B’zは、現代ロックを代表する天才ギタリスト、スティーブ・ヴァイの強い推薦を受けて殿堂入りを果たしました。
そのきっかけは、1999年のヴァイのアルバム『The Ultra Zone』の中の『Asian Sky』でB’zがコラボしたことだったように思います。
さらに2008年にはギネス世界記録から「日本でもっともアルバムを売り上げたアーティスト」の認定も受けるなど日本音楽界を代表する特筆すべき存在であることを立証しました。
このように、B’zは日本のみならず、世界から認められる現代ロックの担い手になったのです。
後編では、世界的に認められたB’zの音楽の世界とそれを表現する稲葉浩志の歌声の魅力と秘密に迫っていきたいと思います。