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郷ひろみ『生き様そのものが郷ひろみ』(前編)人生を変えるJ-POP[第18回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

新年最初の記事は、昨年デビュー50周年を迎えた郷ひろみさんです。年末に行われた1日限りの50周年プレミアムコンサート「Hiromi Go 50th Anniversary “Special Version”~50 times 50~in 2022」を拝見してきました。彼の50年に渡る活躍の軌跡と50年歌い続けられる歌声の秘密に迫っていきたいと思います。

鮮烈なデビュー秘話

郷ひろみ(本名原武裕美)は1955年生まれの67歳です。福岡県出身で4歳の時に父親の転勤によって東京に引っ越しました。

幼少期から美少年で評判だったとのこと。その外見から近所のおばさんが勝手に映画のオーディションに応募し、書類審査を通過してしまったために面接を受けにいくことになりました。

オーディションには落ちたものの帰り際にジャニー喜多川氏から声をかけられ、2週間後に渋谷の合宿所を訪ねるように言われます。

合宿所を訪ねるとNHKに連れて行かれ、その場で翌年の大河ドラマへの出演が決まり、その足で旭川に連れて行かれて、当時、人気絶頂だったフォーリーブスのステージでメンバーから「僕たちの弟のひろみです」と、まだ芸名も決まらない段階で紹介されるのです。

その時に会場のファンが彼を呼ぶ「レッツゴーひろみ、ゴーゴーひろみ!」という掛け声を聞いて、ジャニー氏が芸名を「郷ひろみ」とつけた、という逸話が残るほど、彼は嘘のようなデビューを果たしました。

1972年のNHK大河ドラマ『新・平家物語』で平清盛の弟役で俳優デビュー。同年8月『男の子女の子』で歌手デビューをしました。また、この曲で同年のレコード大賞新人賞を受賞しています。

当時はまだ珍しかった中性的なイメージで一気にファンを獲得し、野口五郎、西城秀樹と共に新御三家と呼ばれるトップアイドルになっていったのです。

彼は転機になった楽曲として1976年の『あなたがいたから僕がいた』をあげています。この楽曲はこの年のレコード大賞大衆賞を受賞しました。

この前年の1975年、新御三家の野口五郎と西城秀樹がレコード大賞候補ベスト10に選ばれたのに対し、彼だけが落選するという経験をしました。この時、自分の歌唱力について、自分自身を叱ったと著書『黄金の60代』で書いているのです。

この時の悔しさが翌年の『あなたがいたから僕がいた』のレコード大賞大衆賞の受賞へ繋がったと言っても過言ではないかもしれません。彼は、ますます自分の歌唱力というものを上達させるという思いを抱くようになったようでした。

コケティッシュな楽曲からバラードまで…常に挑戦し続ける

50年という長きにわたり、アイドルとして活躍してきた郷ひろみの代表作は数多くあります。

『お嫁サンバ』や『林檎殺人事件』のような明るくコケティッシュな楽曲から、『2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン~』『GOLDFINGER’99』のようにスケールの大きいエンタメ色の強い楽曲、さらには、バラード3部作と言われる『僕がどんなに君を好きか、君は知らない』『言えないよ』『逢いたくてしかたない』のような楽曲まで、さまざまなジャンルを歌いこなしてきた歌手と言えるでしょう。

特に『お嫁サンバ』や『林檎殺人事件』『お化けのロック』などは、彼だからこそ、明るく、それなりの品位を保ったコミカルさを失わない楽曲になったと言えます。

それに対して、エンタメ要素の強い『2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン~』や『GOLDFINGER’99』は、彼のアイドルとしての華やかさとエンターテイナーとしてのスケールの大きさが合体して出来上がった独特の世界です。

それは時代の流れや、その時の大衆が求めたものに呼応するかのように変遷してきたと言えるかもしれません。ジャパンポップスの王道を歩き続けてきた彼だからこそ、演じきれる世界とも言えます。

ですが、さまざまなジャンルをその時々に合わせて歌いこなす、時には演じこなすというエンターテインメント的要素は、中性的なアイドルとして熱狂的なファンを獲得しながら、決してその人気に驕ることなく、新しい楽曲に挑戦し続けるスタンスがあったからこそ、築けてきたと言えるでしょう。

バラード三部作で、自分の中に新しい世界を見出す

彼は35歳のときに「やっと少し歌が歌えるようになったかも…」という感覚が訪れたと話しています(『黄金の60代』より)。35歳といえば、デビューして約20年。ちょうど1992年頃で、バラード3部作に出会った頃です。

「35歳のとき、やっと少し歌が歌えるようになったという明るい兆しを感じたが、20年近く経ってやっとその段階かと思えば、ネガティブな気分に落ちそうになった」とのこと。

それでも生まれたばかりの赤ん坊が20年経って成人し、やっと自分の人生を歩いていくんだ、というポジティブな思考に切り替えたことで、それまで歌ったことのないようなスケールの大きいバラード曲にも挑戦する気持ちになったとか。

そうやって彼はこの3つの楽曲に丁寧に向き合い、1年に1作ずつ発表していきました。これがバラードという新しい世界を自分の中に見つける転機になったと話しています。

このように素晴らしい楽曲に出会うことで、彼は、自分の歌唱力というものに真正面から向き合うようになりました。その結果、1998年に3年後に無期限でアメリカへ行くことを決めるです。

これが1999年の大ヒット曲『GOLDFINGER’99』に出会う前年でした。この楽曲は、リッキー・マーティンの『リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ』のメロディに日本語の歌詞をのせたもので、「A CHI CHI A CHI」というフレーズが印象的な1曲です。

この楽曲の大ヒットによって、彼を取り巻く状況は一変したとか。普通、これほどのヒット曲に恵まれれば、その後もなんとかなると考えて、アメリカへ行くことを断念する、または時期をずらす、ということをする人が多いと感じますが、彼はそうではありませんでした。

アメリカ行きを決めたのは、自身の歌唱力を根本から見直すため。このまま何もせず自分を騙し続けて活動することもできる中、決して自分から逃げずに真正面から自分を鍛え直すことを選んだ彼の物事への向き合い方こそが、その後の彼の人生を大きく進化させて行くことになったのです。

後編は、大ヒット曲を出した後、それに固執することなく、自分の意志を貫き、歌唱力というものに真正面から向き合った彼が、どのように歌手として進化していったのか、声の分析を交えて、紐解いていきたいと思います。

彼のニューヨーク行き、という決断が、その後の郷ひろみの歌手寿命を大きく伸ばしたことに間違いはないのです。

後編につづく)

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞