ジェジュン『J-POPの世界を描き出す2つの歌声の持ち主』(前編)人生を変えるJ-POP[第16回]
たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。
今回は、韓国出身の歌手ジェジュン(J-JUN)を取り上げます。
彼は、東方神起のメンバーでした。筆者にとって、この連載の主旨でもある「たった1人のアーティスト、たった1つの曲に出会うことで人生が変わる」という、まさに久道の人生を変えた出会いのアーティストです。
彼の人物像や日本活動を行うことになった経緯、また韓国人でありながらJ-POPを好んで歌う音楽の世界観などを評論的立場から掘り下げていきたいと思います。
歌手を目指して─それは苦しい練習生から始まった
ジェジュン(韓国名キム・ジェジュン、日本ではJ-JUNでも表記される)は、1986年生まれの36歳です。
韓国忠清南道公州市出身。家族は両親と姉が8人の大家族です。その頃、韓国ではJ-POP のリメイクを歌う歌手が多く、彼もその影響を受けて育ったと言います。
小さい頃の夢は「スーパーの店長になること」でしたが、中学3年のとき、クラスメイトに見せられたX JAPANのポスターに衝撃を受け、2番目の夢である歌手を目指すようになりました。
当時、SMエンターテインメントが行っていたオーディションを受けるも落選。高校進学後、歌手を目指すために中退し、単身でソウルに上京。考試院(コシウォン)と呼ばれる簡易宿泊所(家賃1万円程度の生活困窮者のための宿泊所)で寝泊まりしながら、SMエンターテインメントの練習生に合格後も建設現場や皿洗いなどありとあらゆる仕事をして生計を立てていました。
生活するのに仕事に明け暮れる日々で、(コシウォンの家賃が払えず映画のエキストラをしたというエピソードも)、満足にレッスンに通うことができなかった彼は、あやうく練習生を外されそうになりますが、たまたま彼の歌を耳にしたイ・スマン社長によって、東方神起のメンバーに選出されました。
この頃のことを彼は「夢を果たすためにソウルに出てきたのに、日々、食べていくことで精一杯だった」と話しています。
東方神起でデビュー、そして脱退…いばらの道は続く
2003年12月、『HUG』でデビュー(韓国ではデビュー曲を披露した日をデビュー日とする説があります。リリース日は2004年1月)、日本では、2005年4月、エイベックスから『Stay With Me Tonight』でデビューしました。
2010年、東方神起を脱退。同年10月、脱退メンバー(ジュンス、ユチョン)とJYJを結成。韓国C-JeSエンターテインメントにて活動を開始しました。
また、2018年2月より、個人事務所JB'sを立ち上げ、日本活動を再開(業務提携先ケイダッシュ)し、同年6月『Sign』にてソロ歌手として正式にデビューしました。
ジェジュンは東方神起分裂後もエイベックスと専属契約を結び、ドラマ『素直になれなくて』やバラエティ番組などに単独で出演。日本活動を続けていましたが、2010年9月にエイベックスが彼を含む脱退メンバー3人の日本活動停止を発表。以降、日本での活動ができなくなりました。
また、韓国に於いても、SMエンターテインメントという大手事務所を訴えたことで、一切、メディアには出られない時期が長く続きました(その後、和解が成立するも、現在もなお地上波での音楽番組には十分に出演できない状況が続いています)。
JYJとして、また、ソロ歌手として
彼は俳優としても数々の活動を行ない、コリアドラマアワード最優秀演技賞などを受賞していますが、主軸である音楽活動も継続的に行ってきました。
JYJとして2010年に『THE BEGINNING』(英語版アルバム)で正式にグループとしてデビュー。2011年に1stアルバム『IN HEAVEN』、2014年2ndアルバム『JUST US』を発売しました。
また、2013年から本格的にソロ歌手活動を始め、1stミニアルバム『I』、リパッケージ版『Y』、1stアルバム『WWW』を発売。翌2014年1月にはリパッケージ版『WWW化粧を落とす』で中島みゆきの『化粧』を彼自身の韓国語翻訳で収録。また、入隊中の2016年2月には2ndアルバム『NO.X』を発売しました。
2018年にソロ歌手として日本に復帰。デビューシングルは6月発売の『Sign』。同年10月に発売した2ndシングル『Defiance』でオリコン1位を獲得。
また、2019年に発売したカバーアルバム『Love Covers』では第61回レコード大賞「企画賞」、第34回日本ゴールドディスク大賞「ベスト3アルバム(アジア)」を受賞し、これまでにソロ歌手としてシングル5枚、オリジナルアルバム2枚、カバーアルバム2枚を発売しています。
皮肉にも、歌手として活躍できた軍隊時代
ジェジュンの音楽活動は、軍隊時代を含めて3度、大きな変遷を経て、現在のソロ歌手活動へと辿り着いています。SMエンターテインメントと訴訟を起こした後は、韓国で満足に歌手活動を行うことが困難な時期が続きました。
その後、彼が活発に歌手として活動できたのは、皮肉にも軍隊時代でした。
入隊は2015年3月(除隊は2016年12月)です。彼は入隊後、軍楽兵として、軍が行う様々な音楽行事にソロ歌手として出演。特に1年目には、陸軍が行う年に一度の地上軍フェスティバルに於いて数多くのステージを踏み、ソロ歌手としての歌声を披露。その後も多くの軍イベントに出場して活躍しました。
韓国では、兵役を終えて社会的に一人前と認められる風潮があります。芸能人であっても、これは変わらず、多くの芸能人が兵役を経て考えが変わったり、活動の方向性が変わるなど何らかの影響を受けると言われています。
10代の頃よりアイドルとして生きてきた彼らが、ただの一兵卒になるという経験は、精神的にも肉体的にも人間として成長する一つの人生の節目であることには違いないと思われます。
ジェジュンの場合も例外ではなく、除隊後はソロ活動や日本でのビジネス進出など、個人としての多角的な活動に大きくシフトしています。
ジェジュンが日本を忘れなかった8年間
多くの韓国アイドルの活動がいわゆる来日公演という形を取っているのに対し、彼が望んだのは、あくまでも東方神起時代と同じような日本でのオリジナルCD発売による歌手活動や様々な番組に出演することでした。
しかし、日本の大手音楽事務所であるエイベックスと訴訟を起こしたことによって、彼が望む形で日本活動を再開するのに実に8年という年月を要しました。
その間、彼は日本でのファンミーティングやライブを何度も行い、その都度、J-POPのカバー曲を披露してきました。また、日本の友人達との交流を続け、日本語を忘れないように努力したと言います。
それは入隊中も軍務後の夜中などの時間を使って続けたとのこと。このような努力の甲斐あって、2018年2月に正式に日本に復帰しました。
最近は、K-POPは日本でJ-POPと同じように1つのジャンルとして完全にポジションを獲得しています。
これはBTSの活躍によって世界的な傾向でもありますが、BTSが世界進出するまでは、K-POP産業の主たる海外市場は日本でした。今でも日本はK-POPの主たる消費市場の1つで、BTSの収益の一番の市場は日本と言われています。
なぜ、これほど、日本でK-POPが受け入れられるようになったのか、ここで少し簡単に日本におけるK-POPの歴史に触れたいと思います。
BoA、「冬ソナ」…韓流ブームのさなかに日本デビューしたのが東方神起だった
日本と韓国の文化交流が盛んになったのは、1998年の「日韓パートナーシップ宣言」がきっかけと言われています。これによって両国の文化交流の道が大きく開けることになったからです。
この頃、日本ではそれまで盛んだった演歌が衰退を始め、それに代わる音楽ジャンルとして出てきたのがSPEEDをはじめとするダンスチューンのジャンルでした。
即ち、「歌って踊れる」パフォーマンス音楽が高い評価と共に、広く大衆に受け入れられていく土壌が出来上がりつつあったのです。
ところが2000年SPEEDの突然の解散により、人気と実力を兼ね備えたボーカル&ダンス歌手が不在となりました。そこに入り込んだのが韓国出身のBoAでした。
SMは過去に日本進出させたボーカル&ダンスグループがブレイクしなかった経験から、BoAに徹底的な現地化政策を取り、成功させました。
この現地化政策というのは、日本語で話し、日本語の歌を歌う、日本の歌手と同じ活動をすることでした。これによってBoAはJ-POP歌手としての地位を固めたのです。
そこで東方神起の日本デビューに関しても、SMは現地化政策を取りました。ところが、日本では「冬ソナ」ブームの影響で、一部の韓流ファンには話題になりましたが、BoAのようなブレイクには至らなかったのです。
後半では、なぜ、日本では東方神起がブレイクするのに時間がかかったのか、また、ジェジュンの歌声が日本人に好まれる理由や歌声の魅力と分析、さらにJ-POPに拘る彼への期待値などを書きたいと思います。