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椎名林檎『常に時代を先取りするものづくりの名手』(前編)人生を変えるJ-POP[第32回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

J-POP界には優れたアーティストがたくさんいます。それぞれが独自の世界を築いていますが、椎名林檎の存在は、その中でも特筆すべき存在でしょう。彼女のデビューからの軌跡を辿りながら、音楽の世界観や歌手としての魅力に迫ってみたいと思います。


デビューまでのストーリー

椎名林檎は、現在44歳。1978年に埼玉県で生まれました。生まれて間もなく食道閉鎖症と診断され、大手術を受けています。父親の転勤に伴い、静岡県に移り住み、さらにその後、福岡県に転居しました。

幼少期はクラシックバレエやピアノを習っていましたが、食道閉鎖症の手術による左右の筋肉のバランスが保てないという後遺症からバレエの道を断念したとのこと。

バレエ音楽やクラシック音楽ばかり聴いていた時期から、ポピュラー音楽や歌謡曲が好きな両親の影響もあって、次第に五輪真弓、太田裕美、寺尾聰、ペドロ&カプリシャスなどの日本の楽曲やビリー・ジョエル、サラ・ヴォーンなどを聴くようになります。

また、中学に入ると兄椎名純平(シンガーソングライター)の影響でソウルミュージックやR&Bなどブラックミュージックに惹かれるようになっていきました。

福岡県の筑前高等学校に入学後、軽音楽部に入部。部活動とは別にバンド活動をするようになり、最初はコピー音楽ばかり演奏していたと言います。

高校時代には、ロックバンドBLANEY JET CITYの音楽から日本語の良さに目覚め、あらためて日本の楽曲を聴くようになり、やがて彼女自身で詞を書き、曲を作り、それを演奏し始めました。

彼女が高校2年の1995年、「Marvelous Marble(マーブルス・マーブル)」というバンドで「第9回TEENS' MUSIC FESTIVAL」に出場。福岡地区で1位を獲り、全国大会で奨励賞を受賞。

このときティーンズ大賞・文部大臣奨励賞(グランプリ)だったのがaikoで、その後も2人は友人関係を築いています。

同年秋、彼女は「長崎歌謡祭」に出場し、ファイナリストになり、高校2年3学期終了後、学校を中退。

ピザ屋や警備などのアルバイトを経験しながら、音楽活動を続け、1996年「The 5th MUSIC QUEST JAPAN福岡大会」にバンドで出場。大会関係者にソロ転向を勧められたことから、同大会決勝「MUSIC QUEST JAPAN FINAL」では、ソリスト『椎名林檎』として出場。優秀賞を獲得しました。

この賞がきっかけとなり、さまざまなレーベルから声がかかりますが、その中でも非常に熱心だった東芝EMI九州エリアの担当者の紹介で、東芝EMI制作ディレクター・篠原雅博と契約を交わし、プロとしての歩みを始めました。

椎名林檎という名前は、「りんご」という物の名前がついた非常にユニークな名前ですが、これには諸説あって、ビートルズのメンバーであるリンゴ・スターから取ったという説。これは、彼女がもともとバンド活動をドラマーから始めたことから、同じドラマーであるリンゴ・スターの名前を取ったというのです。

また、幼少期から、何かにつけてすぐに頬を真っ赤にする癖があったことから、「りんご」という名前で呼ばれており、そこからついたという説もありますが、私が調べた限りでは、彼女自身の答えは見当たりませんでした。

いずれにしても、後にリリースされることになった『ここでキスして。』や『ギブス』の楽曲を高校時代にJASRACに登録するのに名前が必要であるということから「椎名林檎」を名乗り始めたのでした。

『ここでキスして。』、そして『本能』のインパクト

1998年5月27日にシングル『幸福論』で東芝EMIからメジャーデビューをしたのは、彼女が19歳のときのことです。

今では独特の世界観と音楽観で圧倒的な存在感を持つ彼女ですが、リリース当初はそれほど売れなかったと言います。

今から思えば、彼女の世界観に当時のリスナー達がついていく感覚を持ち合わせていなかった、ということでしょう。

彼女が広くブレイクするのは、20歳のときにリリースした4枚目のシングル『本能』ですが、3枚目シングルの『ここでキスして。』は非常にインパクトの強い曲としてヒットし、彼女の存在を示すことになったのです。

『本能』のMVでは、彼女は、ナースの姿に扮して、ガラスを鉄拳や足蹴りでぶち壊すという激しいアクションを披露しています。ずいぶん、過激なシーンですが、これは彼女のアイデアだったとか。

映画撮影用のガラスを購入して撮影を行いましたが、ガラスが予想よりもずいぶん硬く、彼女は指を切ってしまい、ワセリンを塗って止血してその後の撮影に臨んだというエピソードつきのものでした。

このMVとタイトルにつけられた『本能』ということば、そして、歌詞の内容が評判になり、一気に椎名林檎の名前が世間に知られていくのです。

独特の言葉選びのセンス

その後、彼女は、独特のファッションセンスと個性的なビジュアルが、多くの本格的音楽好きのリスナー達に強烈なインパクトを与え、強力な支持を生んでいくことになります。

椎名林檎の楽曲のタイトルを見てみると、デビュー曲の『幸福論』から始まり、『本能』『罪と罰』などのシングル曲や、アルバム『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『平成風俗』など、およそ音楽の曲のタイトルには似つかわしくない単語が並んでいます。

もちろん、彼女は、楽曲の歌詞も曲も作るシンガーソングライターですが、彼女のことばの選び方のセンスは独特で、非常に哲学的なものを感じさせます。ここが、彼女が、単にアーティストとして終わらず、作家であると自任する根拠なのではないでしょうか。

そんな彼女も妊娠を機に創作活動への情熱が持てなくなり、「東京事変」というバンドを作ることで、自分の創作意欲を掻き立てようとします。

「今の段階では、ひとりきりで作る音楽はやり終えてると思って居ます。東京事変では、何か意図的にこだわる様なことが一切無い作品をつくりたいし、自ずとそうなるだろうと思います」(

そうやって彼女は、バンド「東京事変」のボーカリストと、ソロ歌手椎名林檎としての2面性を持ちながら活動をしていくのです。

後編では、彼女のものづくりの原点とも言えるエピソードや独特の世界観を持つ彼女の楽曲や、独自の映像感覚で作り上げているMVから感じるもの、彼女の歌声の特徴について解説していきたいと思います。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞