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小田和正『歌手としての“ど真ん中”を貫くアーティスト』(後編)人生を変えるJ-POP[第51回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

2022年4月から書かせて頂いていましたこの連載も今回で第50回を迎えることとなり、総論という形の次回を除いて、アーティストを扱うのは、今回が最後になりました。
ベテランと呼ばれる人から若手まで老若男女、現在のJ-POP界を牽引し続けている人や活躍し続けている人などを扱ってきましたが、最後は、現在76歳(今年77歳)でありながら、今なお、澄んだ歌声の持ち主である小田和正を扱います。

(前編はこちらから)


代表曲『さよなら』が生まれるまで

オフコースの代表曲とも言える『さよなら』ですが、実は、この曲は、彼自身、作りたい曲ではなかった、ということが昨年発売された彼の評伝『空と風と時と』(追分日出子著、文藝春秋)の中で語られています。(

この評伝の中で、バンド結成後、長くヒット曲がなかった当時、彼は、周囲から「シングルヒット、シングルヒットと言われるのがすごい負担だった」といったことが書かれています。

デビュー10年目、これといった代表曲のない状態は、グループにとってはかなりの重圧だったかもしれません。

ですが、この時期、彼自身は、ことばや音作りにおいて、自分だけが満足するのではなく、多くの人を惹きつけるものを志向し始めていた時期でもあったとか。

そういう中で、生まれた曲が『さよなら』でした。

この楽曲は、最初は別れの歌ではなく、愛の歌だったとのこと。ところが、レコーディングの前日になって、彼の頭の中にメロディーのフレーズと共に浮かんだことばは、「さよなら、さよなら」だったとか。

それで当時、オフコースを担当していた東芝EMIの武藤敏史氏に話すと彼の意見に同調し賛成してくれたことで、一日、レコーディングを延ばして急遽、書き上げたのが『さよなら』だったというのです。(

この曲は、彼らの思惑通り、大ヒット曲となり、オフコースの代表曲にもなりました。ですが、ずっと彼の中では、「本当に作りたい曲ではなかった」という思いがあったと言うのです。

『さよなら』は、その後もどのオリジナルアルバムにも収録されておらず、「売れるな」「演じているな」という不本意な思いで作った楽曲であるという思いが、彼の中にずっとあった証拠かもしれません。

そして、“本当に作りたい曲”という思いは、次の曲が発売される時に反映されていくことになります。

『さよなら』の曲の次に出したのは、『生まれ来る子供たちのために』です。

自分の作りたい曲を出す、という信念で

当時、『さよなら』が大ヒットした後は、当然、レコード会社では、次の曲も『さよなら』と同じような楽曲を求めてきます。

ですが、ここで彼は、自分の作りたい曲を出す、ということを押し通すのです。これには、プロデューサーである武藤氏の協力が大きな力になったとのこと。

彼の強い思いを汲み取った武藤氏は、この曲を出す理由を正当化するために、営業の人間と組んで嘘っぱちの御託を並べて企画会議を通したというのです。(

いったい、どのような御託を並べたのかは気になるところですが、そこまでして武藤氏がこの曲の企画を押し通した裏には、小田和正という人間の中に、「アーティストとしての本物の力」を感じたということが言えるのではないでしょうか。

たった1曲のヒット曲でその後、潰れてしまう歌手は数えきれないぐらい、います。ですがヒットの先に、本物の力を持っている歌手は必ず生き残っていく。

小田和正という人の音楽への向き合い方、ことばの選び方から、音楽への真摯な思いが伝わってくる。そう感じたのではないでしょうか。

ヒットするかどうかは誰にもわかりません。曲というものは出してみないとわからないもので、ヒットというのは結果であって、それがアーティストの真髄を測るものではないということを、武藤氏は読み取っていたのではないでしょうか。

そうやって、この曲が世の中に出たのは、1980年3月5日。オフコースの18枚目のシングル曲として発売されました。「シングルで出せるんだとなったときが、一番うれしかったかもしれない」というこの曲は、その後、発売から約20年後の1999年に、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の難民救済活動への支援を訴えるCMソングとしてテレビでも流れるようになります。

そして、その後は、何人ものアーティストにカバーされるほどの曲になり、多くの人が知ることになっていくのです。

時代は変化してもなお、多くの人を惹きつけるアーティスト

日本の音楽界には60代を超えてなお、活躍し続けるアーティストはたくさんいます。

しかし、これらの世代の人達の多くが過去の楽曲が起用されるのに対し、小田和正は、ちょうど60歳を迎える2007年、『こころ』でオリコンチャート1位を獲得しています。また、ヒット曲『たしかなこと』は、その2年前の58歳のときの作品です。

1970年代終わりから、80年代にオフコースとして1時代を築き、その後も、ソロ歌手として活躍し続けてきた彼が、2000年代に入ってもなお活躍し続けている。

この事実が、いかに小田和正の音楽が時代の変化と共に人々の心に寄り添っているかという証拠でもあるでしょう。

『たしかなこと』は、2005年5月に23枚目のシングルとして発売されました。

この曲は、この年の1月に放送されたTBSドラマスペシャル『星野仙一物語〜亡き妻へ贈る言葉』の主題歌になり、さらに明治安田生命の企業CMソングに起用されています。

そして、この曲のカップリングに『生まれ来る子供たちのために』が用いられているのです。

1980年に発売された楽曲が実に四半世紀、25年という時を経て、新たな時代へのメッセージとして多くの人の心に届いていくのです。

このように2005年は、彼にとって、オフコース時代から変わらず持ち続けてきた音楽への信念ともいうべき、音楽を通して本当に伝えたいことが、多くの人の心に届いた年とも言えるかと思います。

発売後、25年を経て、楽曲が再び日の目を見ることになるというのは、如何に小田和正が当時、見つめていたもの、感じ取っていたものが、時代を先取りしたものであったかということの表れではないでしょうか。

そんな彼が紡ぎ続ける“ことば”と“メロディー”だからこそ、75歳を過ぎた今でも、彼が作り出す曲は、世代を超えて、多くの人の心を打つのではないかと感じます。

2000年という時代の大きな変革期を経てなお、彼がヒット曲を出し続けていること、世代を超えて多くの人が彼の音楽に惹かれることの大きな理由が、そこにあるように思えてなりません。

「本当に作りたいもの」
「本当に音楽を通して伝えたいこと」

これらにこだわり続けてきたからこそ、小田和正は、今なお、歌い続けることが出来るのです。

今回、小田和正について書かせて頂くにあたり、NHKで放送された彼の全国ツアーの様子を収録した番組「こんどこそ、君と!!〜小田和正ライブ&ドキュメント2022-2023〜」を拝見しました。(

そこで垣間見えるものは、彼のちゃめっ気たっぷりなMCの魅力も含めて、長く応援し続けてくれているファンと共同で作り上げていく世界です。

彼が歌手としての“ど真ん中”を貫いてきたからこそ、時代を超え、世代を超えて、彼の音楽は多くの人の共感を呼ぶのではないでしょうか。

まさに、時代と共に歌い続ける歌手、小田和正は、J-POPを代表するアーティストであると改めて感じると共に、彼がいつまでも、私たちにメッセージを送り続けてくれることを願って、次のライブには、ぜひ、参加したいと思う私でした。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞