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中島美嘉『常に独自の光を放ち続ける存在』(前編)人生を変えるJ-POP[第15回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

今回は今年デビュー21年目を迎え、新しい境地を開いている中島美嘉を扱います。J-POPの世界で、数少ない女性アーティストであり、デビュー当時から圧倒的存在感を放っていた彼女独特の世界観や、人物像、これまでの軌跡を辿ってみたいと思います。

デビューは、主題歌とヒロインと…

中島美嘉は1983年生まれの39歳。鹿児島県日置市郊外で生まれ育ち、中学2年生の時に家族で鹿児島市内に引っ越し後、1998年に福岡市に単身転居、モデル活動などをしていました。

その後、彼女は、たまたま友人が作った曲のデモテープの仮歌を歌います。それがソニーのスタッフの目に留まり、2001年、ソニー・ミュージックエンタテインメント主催のボーカルオーディション「SD SINGERS REVIEW」に合格、同年11月7日にシングル『STARS』をリリースして歌手デビューをしました。

この曲はドラマ『傷だらけのラブソング』の主題歌であり、さらにドラマで彼女はヒロインに大抜擢されるという、非常に恵まれた形でのデビューとなりました。

1stアルバムが発売3週間でミリオンセラー

2002年には1stアルバム『TRUE』を発売。オリコン初動(発売日からの一週間、もしくは最初のオリコン結果発表する月曜日までの売上のこと)1位、さらに発売から3週間を待たずミリオンセラーを達成。

累計売上、117.2万枚という大ヒットになり、日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の新人賞を受賞して、同年年末の紅白歌合戦に初出場を果たし、その後、病気による活動休止までの7年間、連続出場をしました。

2003年に発売した2枚目のアルバム『LØVE』は、オリコン初登場1位になり、発売から1ケ月足らずでミリオンセラーを記録、累計150万枚以上を売り上げました。同アルバムは韓国でもヒットし、5万枚を売り上げて、韓国でのJ-POPトップ歌手としての地位を固めたのです。

さらに日本レコード大賞にてベスト・アルバム賞・金賞・作詞賞を受賞しています。2005年には矢沢あいの人気漫画を原作にした映画『NANA』で主役のNANAを演じ、主題歌『GLAMOROUS SKY』もヒット、自身初のオリコンシングルチャート1位を記録。年間オリコンシングルチャートで女性唯一のトップ10入りを果たしました。

この映画では彼女の演技力が高く評価され、第29回日本アカデミー賞・優秀主演女優賞・新人俳優賞など数々の賞を受賞しました。

このように彼女はデビュー当初から非常に恵まれたスタートを切りました。歌手だけでなく俳優としての才能も発揮してポジションを築いていきます。

ですが、彼女自身は、「こんな状態は長く続かないだろう」と自分に言い聞かせていたとか。「3年ぐらいしか続かないだろう」と自分の中で勝手に区切りをつけていたと話しています。

トントンと順調にヒットを飛ばし、スターの階段を上っていく自分にどこか懐疑的だったのかもしれません。

自分の歌に自信がなく、「この仕事が終われば辞めよう」「次の仕事が終われば辞めなきゃ」という思いを抱えながら仕事をこなしていたとのこと。
ところが映画『NANA』の主演が決まった辺りから、次々に仕事が入り、もう自分から辞めると言えない状況になってしまったそうです。

そうやって自分が人気者になっていくことで、「自分が受け入れられた」という気持ちと、「私の性格では荷が重すぎる」という気持ちの葛藤があったと言います。

自分が渇望して歌手になったというのではなく、たまたま歌った仮歌が認められ、歌手としてのスタートを切り、次々とヒット曲に恵まれて、「とにかく環境に慣れるのに必死だった」という人も羨むようなデビューからの数年を過ごしてきた彼女にしかわからない、大きな不安感があったのかもしれません。

病気による活動休止中に得た思い

このように順調に進んできた彼女ですが、2010年に”両側耳管開放症”という病気であることを公表し、活動を一旦休止します。

“両側耳管開放症”という病気は、耳と鼻・のどをつなぐ管(耳管)が開きっぱなしになるために起こる病気で、症状としては、耳がふさがった感じがしたり(耳閉感)、自分の声・自分の呼吸音が耳に響いたり(自声強聴・自己呼吸音聴取)します。

精神的ストレスが原因とも言われ、特効薬はなく、気長に治療を続けることで症状が改善するのを待つしかありません。歌手では、歌うと音程がずれる、自分が出した音と違う音になるというような症状が出たりもします。

彼女は、この耳の不調に公表する数年前から悩まされていたようで、「自分で気にしないようにしたり、放置したりしたこともあったが、医師から、もう限界と言われ、公表することにした」とのこと。

「休業するのか、引退するのか、真剣に悩んだ」とも言います。

結局、彼女は、2010年の10月から活動を休止。翌2011年4月に活動を再開させます。完治したのではなく、治療を続けながら活動を行うという状態を続けます。

活動休止中に「逃げたつもりだった」というニューヨークでトレーニングをしたり、知人と会ったりしたことで復帰に前向きになったと言います。

その後、自身が痛みを経験したことで歌も変化し、「一番心が弱い私がステージに立っているから、みんなも大丈夫」という「大人が平気で泣ける場所を作りたい」という思いで、ライブに対する気持ちも変わり、「痛みに寄り添う」ことをテーマに活動を続けてきました。

自分の身体と向き合い、整える

2020年、コロナ禍のもと、多くのアーティスト達は、ライブが中止になり、活動の制限を余儀なくされました。その間、彼女の活動も例外ではなかったのです。

在宅が多くなった彼女は、自分の身体に向き合うことを始めます。ヨガをやったりしながら、自分を整えることを始めます。そういうことが功を奏したのか、デビュー20周年を迎えた2021年、聴力が奇跡的に回復したとのこと。

今、彼女は、「歌うのが最高に楽しい」と言います。

「いろいろ抱えていた問題がなくなって、思うように歌えるようになったんです。こんなに歌いやすいものなんだと思ったとき、いくらでも歌ってやる! と思いました。(アクティオノート、インタビュー「中島美嘉、今、歌うのが最高に楽しい」よりhttps://note.aktio.co.jp/art/20220111-1045.html

そんな彼女の歌声の特徴が非常に出ているのが、歌手の一発撮りで有名なサイト『THE FIRST TAKE』での『僕が死のうと思ったのは』と『雪の華』の2曲の歌声です。

※明日の後半の連載では、彼女の歌声の魅力について、詳しく語っていきたいと思います。

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞