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本の世界は“逃げ込める場所”になる。【『電車のなかで本を読む』著者・島田潤一郎さんインタビュー】

スマートフォンの普及で、紙の書籍はその地位を脅かされているようにも見えます。でもネット上の言葉は、本が伝える言葉と同じ役割を果たしてくれるのでしょうか? 言葉によって生きている私たちは、もっと本を読むことの意味を問い直すべきなのかもしれません。『電車のなかで本を読む』(青春出版社)の刊行を記念して、その著者でひとり出版社・夏葉社の代表である島田潤一郎さんに、読書の意味や素晴らしさについてお話をうかがいました。

すぐにわかることはすぐに忘れる

――私たちは普段、どこに行くにもスマホ持ち歩いて、少し時間があるとつい見てしまいます。

島田 すごく重要なのは、インターネットの世界でよく読まれる言葉というのは、読まれるように書かれているということです。ページビュー(PV)をとってなんぼですから、内容や文体もそういうふうになっている。

本の言葉は、それとは少し違う気がします。もう少し誰かの話を聞いている感覚に近いですかね。

やはり言葉というのは、食べ物が体をつくるように、自分をつくるものだと思うんです。自分をつくり、自分を理解し、自分を語るための道具である言葉がマーケティング的な言葉に侵食されていくのは、やはりいいことではないように感じます。

ネットの言葉や友人たちとの言葉だけで自分を理解しようとすると、自分はすごく優秀な人間だと勘違いしたり、逆にいろいろな人の言葉に惑わされて「自分はこんなものか」と落ち込んだりする。

でも、本で常にたくさんの言葉を入れていれば、そんなに自分を嫌いにならなくてすむかもしれない。僕は生きるのがすごくしんどい時期があったので、本の言葉というのは、自分を長期的にすごく勇気づけてくれた気がします。

僕が意識しているのはそういうことです。

――ネットの世界でPVを稼ぐための言葉があるように、売れることに特化した本もあります。

島田 そうですね、僕がひとり出版社で本をつくることの意味は、そういうところにあるんじゃないかと思うので、そういうものは注意深く避けているつもりです。

えてして、すぐにわかることはだいたいすぐに忘れてしまう。すぐにわかるのは、すべて自分が知っている範囲のことや想像できることだからで、実際はすぐにわからないことのほうが大切だと思うんです。

何かわからないことに向き合っているほうが楽しいですしね。それは、人間理解ということにもすごく近いような気がします。本を起点に考えが広がったり、心に何か引っかかったりすることが、ずっと僕が本を読むことの動機なのかもしれません。

本を読むと「マシな人間」になれる!?

――現代は、いつも新しい情報に追い立てられているかのようです。

島田 僕も、本質的にはスマホが大好きです(笑)。でも、やはり「これでいいのかな」と思うきっかけがあって……。

長女が生まれたとき、ミルクをあげたりあやしたりしながら、ずっとスマホを見ていたんです。多くの人が思い当たると思うんですが、「あの芸能人は何をしているのかな?」とか、「そういえば、あいつ(同級生)はどんな会社にいるんだろう」とか、知らなくても別に問題ないようなことを一所懸命調べていました。

そのときふと、目の前に生まれたばかりの娘がいるのに、彼女のことを全然見ていなかったことに愕然としたんです。親がこれだけスマホに夢中だったら、娘も絶対にスマホに夢中になるわけで、「僕は親としてそれを望んでいるのか?」と自分に問いかけました。

スマホはもはやエンターテインメントなんだから、それはそれでいいという考えもあるとは思いますが、「それをやり続けて、僕はどこへ行くんだろう」という不安を感じたんです。

「僕は立派な人間になりたいと思ってずっと頑張ってきたつもりだけど、なぜ知り合いでもない芸能人のことを気にしているのか?」と。そのうち、「まだ引き返せる」と思ってガラケーに変えました。今は通話のためのガラケーと、Wi-FiだけでつながるiPhoneの二台持ちです。

――たしかにそのほうが精神衛生上よさそうですが……普通はなかなか実行に移せません。

島田 Wi-Fiがつながっているところではネットを見ていいというルールなんです。あと、新幹線では自由に見ていいと自分で決めているので、新幹線に乗るとうれしい。「うわー! スマホを見られる」みたいな。僕も常にネットを見たいという気持ちがあって、やっぱりこれはドラッグみたいなものです。

アプリにしろSNSにしろ本当によくできていて中毒性の高いものばかり。でも、それを見て、そのまま年をとりたくない、もう少しマシな人間になりたいという気持ちが本当にずっとあって、それにはやはり本を読んだほうがいいのではないかと思うんです。

もう少し、なんとかなれるはずなんですよね(笑)。

――島田さんの考える「マシな人間」とは、どんな人ですか?

島田 端的に言うと、わからないことをわかろうとする姿勢を忘れない人間でしょうか。よくおじさんが嫌われるのは、すべてのことを自分が理解できる範囲に矮小化するからです。どんな問題でも「それはこうだろう、ああだろう」と。

でも、だいたいのことは、「それはそういうことでしょ。僕はもう経験したから大丈夫だよ」と片づけられるものではないはずなんですよ。

人間として必要な能力というのは、相手の言い分を聞いて、相手の言い分を理解すること、相手の身になることだと思うんです。子どものころはよく「相手の気持ちになりなさい」と言われますが、すごく難しいからこそ繰り返し言われるのでしょう。

必要なのは相手の側に立って一緒に考えてあげる力であって、相手の気持ちを想像することが、たぶん相手にとってはうれしいはずです。

――本を読むと、いろいろな世界があることがわかるわけですね。

島田 百人いたら百人が違うことを認めるのが多様性だとしたら、それはやはりすごくしんどい。でも、多様性を尊重するとはそういうことで、「あなたとあなたは違う」「あなたと私は同じである」ということを、私たちはずっと確認し続けなければいけないような気がします。


[生き方の指針になった本]
『幻想の未来』(岸田秀・青土社)
自己を確立するなんていうのはまやかしで、自己というものは常に相対的なもの。だから、他者との関係にしか自己はないというようなことが書かれた精神医学の先生の本です。若いときは、頑張れば自己を確立できると思っていたんですが、そんなのはウソだと(笑)。
僕は若いときにこれを読んで、すごく救われたし勇気を与えられた。一見強そうな人はだいたい何かに依存しているし、あるいは単に鈍感なだけかもしれない。鈍感だとはその本には書いていませんが、僕の読み方からはそういう結論になります。

読書は苦しいけど楽しい

――最近はどんな本を読んでいますか?

島田 この半年、ムージルの『特性のない男』という全6巻の小説をずっと読んでいるんですが、半年間ずっとつらい(笑)。「この小説にハマっちゃって、一晩で一気に全部読んだよ」みたいな読書もあるとは思うんですが、僕にとっての読書は苦行に近いものですかね。

毎日15ページだけ読み続けてやっと最終巻。すごく難解で読みづらくて、読むたびに初めて読む気持ちになるくらいです。なぜ難しいのかというと、文章の抽象度がすごく高くて、何を書いているのかがよくわからない。

こういう難解で読みづらい本を読んでいると、ずっと頭のストレッチをしてるような感じです。ときおり全体の輪郭が何となくぼやっと見えてくる感じがするんですが、結局は見えない(笑)。

――なぜこの本を読み始めようと思ったんですか。

島田 若いときに読んで、そのときもよくわからなかったけど印象には残っていて、長年気になっている小説の一つだったんです。

やっぱりわかっているもの、わかりやすいものだけを読んでいては駄目だという気持ちもあるように思います。あとから考えると、読んで骨が折れた本のほうが、自分の人生の役に立っているからかもしれません。

でも、勘違いしないでほしいのは、こうした読書も広義な意味では楽しいんですよ。楽しいか楽しくないかと言ったら、すごく楽しい。ただ、そこに行くまでには少し努力が必要で、ほんの少しの努力を続けていくと、いろいろな世界につながっていくというような楽しみ方です。

――筋トレみたいですね。

島田 僕はマラソンはやったことがないんですけど、「マラソンってこういう感じなのかな?」って思うことはあります。少しずつ長い距離を走れるようになったり、タイムが縮んだりするって言うじゃないですか。

少し休むとすぐにしんどくなるのも似ているのかもしれません。一カ月休むと、前まで簡単に読めていたものが読めなくなる。継続して読んで何が得られるのかはわかりませんが、読んでいる間はいろいろなことが前よりも理解できているような気になります。

だから、年をとっても、毎日一生懸命読みたいですね。そのほうが精神的に健康だし、若い人たちと話ができるかもしれない。

――いつ本を読むことが多いですか?

島田 以前は電車通勤だったので、乗っている間はずっと読んでいたんですが、コロナの感染者が出てからは自転車で会社に通うようになっていて、電車であまり本を読めなくなってしまいました。そこで、今は昼飯のあとに必ず30分間、あとは夜寝る前に30分、本を読むようにしています。一日一時間は必ずです。

長距離移動のときはそれ用に違う本を用意して、もう少し長く読んでいても退屈しないような本を読んでいます。

それでも、まだ読んでいない本が一千冊くらい(笑)。営業で書店に行くことも多いので、すごく買ってしまうんです。それを、テトリスをやっているみたいに崩していく感じです。

一冊の本への“到達ルート”を想像する

――そのなかから、読む本はどうやって選んでいるんですか?

島田 最終的に到達したい一冊の本を決めて、それを読めるようになるために読書していきます。たとえば、小林秀雄の『本居宣長』という難しそうな本があって、今そこに向かう登山ルートを見つけようとしているところです。

「こう行って、こう行ったら読めるんじゃないか」とか、「どのルートを通って、そうするとより理解できるんじゃないか」とか、「本居宣長関連の本を読むんじゃなくて、少し難しそうな本を読んで、ここは少し易しめの本を読んで気持ちを高めよう」とか、組み立てを考えるのが楽しいんですよ。頂点となる本は何冊もあるので、時間がいくらあっても足りません。

あと自分のなかでルールにしているのは、解説書みたいなものには手を出さないということです。

――「30分でわかる」みたいなものですね。

島田 人間理解と同じで、「これはこういうことでしょ?」みたいに、本来自由であるべき解釈まで教えられるのはちょっと違うと思うので。

――最近は「要するに、どういうこと?」と、かいつまんで説明することが求められます。

島田 読書というものは知識を身につけるためではなく、常に心や頭をトレーニングする感じでやっているので、知識とはまったく関係ないものというくらいに考えています。

そういうものはすべてデジタルの世界へどうぞという感じですね。僕もそういうものはインターネットで調べるし、そっちのほうが最短ルートだから。

でも、本を読むというのは全然そういうことではなくて、誰かとしゃべっているような、誰かの話をずっと聞いているような感じです。大学の授業では教授の話を一時間半とか聞いてたわけですよ。ああいう機会は社会人になるとほぼない。

本を読むというのは、一日、一週間、一カ月、ずっと誰かの話に耳を傾けているようなことでもあると思うんです。それはやはり自分にはとても必要だし、社会にとっても必要な行為のような気がします。

話を聞いてほしいと思って居酒屋で相手に一生懸命話して、「結論は何なの?」って言われたら……(笑)。本を読むということは、その要点ではなく、内容のすべてではないかと思うんです。こういった本の力は、他のメディアにも他のツールにもないことでしょう。

――出版界に明るい未来があるような気がしてきました(笑)。

島田 たとえば、同じ本を百人が読み始めるとするじゃないですか。そうしたら、素晴らしいことに読み終わる時間も百人みんなが違う。それだけ読み手に合わせられる、寄り添えるメディアだということです。

早く読み終えることには、僕は何の価値も意味も見い出せません。やはり私たちに足りないのは、人の話をゆっくり聞く、相手の気持ちを理解するという姿勢だと思います。

それは人間づき合いのなかで身につけるのが一番正しいんだとは思うんですが、僕は性格的にそういうことがなかなかできなかった。人間関係はいまだに苦手だし、人と腹を割って話すこともできないタイプなので、その慰めでこういうこと(ひとり出版社)をやっているのかもしれませんね。

――本には、さまざまな人物や人間関係が出てきます。

島田 父親、母親ともわかり合えないこともあるし、もちろん妻とわかり合えないこともある。理解したいとは思うんです。それでも、長年つき合っていても理解できないことはやはりあるんです。

じゃあ、それでも本音で話し合えばいいのかと言ったら、僕はそういうことだけではないような気がする。

本に出てくる魅力的なヒロインは、自分が一番知っている魅力的なヒロインとどこかはかぶるし、本に出てくる憎たらしいやつは僕が嫌いな人に似てくるし、そういうふうに想像しながら、自分の身近な世界を引用しながら何かを理解しようとしているんだと思います。それは、やはりテレビや映画とも少し違うんですよね。

“正しい解釈”を求められない自由

――本を読むことのいい点って、他にもありますか?

島田 世の中的には、一つの言葉は一つの概念、一つの定義で成立しているように振る舞うのが社会的なマナーだと思うんです。

たとえば、「これから会議です」と言われたときに、「そもそも会議って何ですか」なんて突き詰めていたら、いつまでたっても始まらないじゃないですか(笑)。

それは実社会ではマナー違反だと言われる。社会で生きるには、やはり最大公約数的な意味を尊重することが求められるんです。でも、それが苦しいという人もいます。「みんなはこの言葉をこういう意味で使ってるけど、本当はそうじゃないんだけどな」なんて思いながら。

僕はそういうところでは社会人としてマナーよくしていますけど、それだけでは耐え難いから、気持ちよく眠るために本で心を整えています。

――本だと、読者は意味や内容を自由に受け取りますね。

島田 そうです。別にその感想を僕は誰にも言わないし、妻に言うわけでもないし、SNSで発表するわけでもない。誰かに見せびらかすためにやっているというよりは、常に心を整えて、すごくネガティブに言えば病気にならないように、何か精神疾患を患わないようにしているんです。

僕もしんどくて、心の病気になりそうになったことがやはり何度かありました。そういうときに、毎日体操をするようにして、本を読んできたことが役に立ったように思います。

僕が尊敬するある作家は、「本の世界がホームで、あとは全部はアウェーだ」と言っていました。僕はその言葉に対して「そのとおり!」というほどに共感はしていませんが、大切なのは、現実の世界がイヤになったら、自分にはもう一つの世界があると思えること。

常に二つの世界にまたがって生きているような感じで、これが僕はすごく重要な気がしています。だから、本はシェルターみたいに逃げ場所にもなっているわけです。

言葉という偉大なものの力によって、あらゆるほとんどのことを相対化できる。生きていると、世の中にはイヤなこともしんどいこともたくさんあるけど、いつも現実の世界だけでそれを消化するのではなく、本を通して消化しているような感じもあります。それは、生きるうえで楽になるからなのかもしれません。


[生き方の指針になった本]
『言葉と物』(ミシェル・フーコー)
『純粋理性批判』(カント)
理解できているか甚だあやしいですが(笑)、この二冊はいずれも限界について書かれていたように思います。それは言葉の限界と理性の限界についてです。「ここまでは人間が考えられるけど、これ以上は考えられない」ということ。それと、言葉というものはすごく自由なようで実は不自由なもので、ツールとしての言葉には問題や欠損があるのではないか?……というようなことです。
「言葉は自由で、訓練さえすれば、自由にあらゆることを考えられる」と思うのか、それとも「言葉はものすごく不自由なもので、ここまでしか考えられないものだ」と思って言葉とつき合うのか。言葉に対するまったく異なる二つの態度があるわけです。
若いときにこの二冊を読んで、ものを書いたり、考えたりするというのは、つまり不自由な言葉というものの組み合わせにすぎないわけで、それ以上のことではないと感じました。言葉のプロというのは、つまりその組み合わせのプロであるということなのではないかと。僕は作家を目指して、毎日自分に才能があるかどうかについて思い悩んでいたので、そんなふうに吹っ切れて考えられると、すごく気持ちが楽になりました。