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私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。(ヨブ1:21)

1月29日 (月) 
今週は「ヨブ記」の全て、1-42章と「詩編(詩篇)」13-15章を読んでいきます。
(「創世記」は2月5日(月)から再開します。)
 私たちがどのように生きることが最良の道であるかを聖書は教えます。もちろん神の示される道です。では、具体的にはどういう道でしょうか。お金のこと、仕事のこと、対人関係、苦しみに会った時の対処、これらに対していろいろな教訓があります。このようなことについて書いてある文書を「知恵文学」と一般に言われています。ヨブ記、箴言、伝道の書(コヘレトの言葉)がこれに当たります。詩の形式で語られます。イエス・キリストもこの形式をとって話をされたことがあります。(マタイ5章「さいわいなる者」)

 ヨブは信仰あつく、正しい人でした。

 ある日、サタンの試みがありました。(不幸がサタンから来るということが主題ではありません)

 不幸に不幸が、苦しみに苦しみが重なることが私たちの人生にあります。一体なぜ正しい信仰のある人が苦難に合うのでしょうか。これこそが、ヨブ記の主題です。

 友達が慰めに来てくれました。ところが慰めるどころかヨブを攻めて議論します。この議論が非常に長く第31章まで続きます。文学的に味わいのあるものです。

 友人はヨブが何か罪を犯したため不幸がやって来たと主張します。私たちもよくバチが当たっとか、因果応報などと言いますが、ヨブ記の神からの結論は何でしょうか?

「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」
(ヨブ1:20~22)

第一番目の友の意見、
ヨブが何か罪を犯したから不幸がやって来たと主張します。

それに対してのヨブの答えは(6章)
本当に、不幸や苦難の原因は罪なのでしょうか。そうとは思えないと、ヨブは神に訴えるように友に答えます。

また、二番目の友達が意見を言い、ヨブとその子供たちの罪を責めます。(8章)

「私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。」
(ヨブ6:9~10)

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