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家族に奴隷扱いされていたぼくが、奴隷だったことを自覚するまで

ここ最近、ぼくの周りの影響でぼく自身の考えに大きな変化が生まれています。
それによって今後のぼくの行動は大きく変化していく…はずです。

この記事では、ぼくの周りで何が起きたか、そこからぼくは何を感じ、どう変化しているのかをまとめています。

ぼくはミニマリストであり、自称↓

  • アダルトチルドレン

  • 神経症者

  • 家族への執着

  • ADHD

です。ぼくは今の今までずっと家族に執着してきました。ですが、今の今まで執着していたことに気付かないで生きてきました。その結果が、ぼくは奴隷でした。家族が主人でぼくは奴隷。

奴隷なのに家族に執着していたぼく。そんなぼくが、やっと自分は奴隷扱いされていたことに気付くまでの過程をお話します。

きっかけはおばあちゃんの病気と死

まず前提としまして、ぼくは家族と離れ、一人暮らしをしています。それも、告げたわけではなく置手紙で出てきました。ぼくの扱いがあまりにもひどすぎることに反発した家出です。

ぼくは実家を継ぐ予定でした。兄が継がないから。しかし、継ぐと決まったのに、ぼくの扱いは最底辺。なのに、継がない兄はそのまま敬われている。
それに納得がいかず、ぼくは責任を放棄して家出しました。
それが数年前の話です。

そして先日、おばあちゃんが入院したという知らせが届きます。母親からです。しかしその母親の言い分は、あまりにも一方的でした。

簡単に言えば、「お前は一番おばあちゃんに可愛がられていたんだから、見舞いくらい行け」というものでした。これにはぼくは呆れと怒りを覚えました。

確かにおばあちゃんがぼくを可愛がっていたのは事実です。ですが、なぜ一番ぼくを可愛がったのか?それはおばあちゃんを一番世話していたのもぼくだからです。おばあちゃんの畑仕事があれば手伝い、出掛けたいと言えば車を出す。だからおばあちゃんはぼくのことを可愛がってくれました。

一方、他の家族はどうでしょう?仕事があるからと断り、尋ねる間もなく家にもいない。誰にも頼れないから、家で引きこもるぼくを頼った。それが真実です。そのようにおばあちゃんを雑に扱いながら、よくもまぁそのようなことが言えるものだなと、呆れと怒りが沸き上がりました。

ここでようやく、家族にとってぼくは何なのだろうか?という疑問を覚えました。このようなぞんざいな扱いを受けて、なんでぼくは家族に執着しているんだろうかと考えました。

そこでやっとぼくは気付いたんです。ぼくは家族にとって奴隷だったんだと。何を言っても、何をやらせてもいい、けれどぼくの話は聞かない。そんな奴隷が、ぼくだったんです。

奴隷だったことに気付かない自分

この件があるまで、ぼくは自分が奴隷だと思っていませんでした。家族と対等だと思っていました。

ぼくは家出をしました。しかしそれは、家族を見限ったわけではありませんでした。頭ではそう思っていましたが、心はそうではなかったんです。

ぼくは追いかけてほしかったんです。逃げたぼくを、家族が追いかけてきてほしかった。逃げ出すほど辛い気持ちだったのかと慰めてほしかった。ちゃんと尊重すると、愛してると言ってほしかった。

逃げ出しておきながら、ずっとぼくは追いかけてきていないか家族の方向を見ていたんです。数年間、ずっと。

しかし、先日の件から、ぼくの存在はなんなのかと考え、そしてちょうど今そんなぼくにベストな本を読む機会が訪れました。
それが、加藤諦三先生の「愛されなかった時どう生きるか」という本です。

この本を読んで、ぼくは家族にとってどういう存在なのかがやっと分かりました。そして、自分を奴隷だと仮定して過去を振り返ったとき、まさに自分の扱いは奴隷そのものだったと気付いたんです。

家族にとって、ぼくは奴隷。だから、奴隷が逃げ出したんだから怒りはしても、追いかけてくることはしない。愛していないから当然でした。

自分が奴隷扱いを受けていたのに、どうして家族が振り向いてくれることを願っているのか。そこでやっと、ぼくは家族に執着していることに気付きました。

家族への執着を断ち切るために

家出をして数年経ちました。しかしその数年は、ずっと家族からの逃避状態でした。逃げながらずっと待っていました。
そう思うと、自分の家族への執着は異常であることに気付きます。

しかしぼくは奴隷。追いかけてくることも、愛されることも決してない。それが現実だと、ぼくは受け止めないといけない。頭で分かっても、心がついてきません。「もしかしたら…」といつもチラつきます。

でもその度、家族のぼくへの扱いを思い出し、そんなことは無いと考え直す。最近はずっとその繰り返しです。

それ以外にやっているのが、「自分のやりたいことをやる」です。
やりたいことをやることで、家族への執着を断ち切る。

詳しい解説は↑の著書になりますが、家族への執着は家族によってやりたいことをやらせてもらえなかった不満を、家族に愛されることで満たそうとして起きた事です。
なので、やりたいことをやることで不満を無くせば家族に愛されたいという思いも消える。そういうことらしいです。

やりたいことをやる難しさ

しかし、やりたいことをやるだけ…と言葉では簡単ですが、今のぼくにとってこれほど難しいことはありません。

まずやりたいことが浮かびません。これまでずっと、やりたいことをやってきたつもりでした。しかしそうではなかったみたいです。
やりたいことだと思ってやってきたことは、実は逃げるための隠れ蓑だった。今はそう思っています。何かそれらしいこととか、それ自体がいいこととか、他人からどう見えるかということを意識したことばかりで、自分がやりたいこととは少し違っていました。

本当に自分のやりたいこととは何なのか。それを考えたとき、↓の条件が思い浮かびました。

  • 子どものときにやりたかったこと

  • 恥ずかしいこと

  • やろうとして罪悪感を覚える事

  • 親がしてほしくないこと

ぼくがやるべきやりたいこととは、つまるところ子どものときにやりたかったことです。何せ抑圧は子ども時代からですから、それをやることが大事。恥ずかしいのはもちろんのこと、抑圧が当たり前だったので自分のやりたいことをやることに罪悪感もあります。そもそもやりたいことを考えることが苦痛。

さらに、親はぼくよりも常に上に立ちたがりました。だから、子どもが褒められるとすぐ不機嫌になりますし、そういった場にいることも嫌がります。そそくさとぼくを連れて帰ったこともあります。決して、ぼくを誇ることはありませんでした。だから親が嫌がることもできませんでした。

こういったことをやることが、家族への執着を断ち切ることに繋がる。やりたいことをやるだけのことが、とてつもない苦行です。しかし、苦しむのは抑圧から抜け出そうとしている証拠だと思います。それを突破したとき、やっとぼくは自分で自分の人生を送ることができるようになる…そう思っています。

この記事を書いた理由

この記事は、「家族にこんなにも自分は貢献しているのに、なぜか扱いがおかしい…」そう感じた人へと伝える記事として書きました。

家族が家族を奴隷扱いする…これは決してドラマの話じゃない。現実なんです。それを受け止めないと、前には進めない。

ですがその事実を少しずつ理解できれば、家族へと向けた執着から自分自身が解き放たれる。まだぼくは完全に理解できていませんが、確かに実感しています。

この途中の状態の自分、執着と解放のはざまにいる自分だからこそ書ける物があると思い、書きました。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


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