いじめは生存本能

学校からいじめを無くそう。

そう世の中で言い続けてどれくらい経つのか。
いじめが無くなる気配は一向にない。
無くそうとあれこれやって、何の効果も無い。

そこでぼくは思う。

そもそもいじめとは何なのか。

今回のnoteは、ぼくの考えるいじめとは何かをつづっていく。

いじめとは生きる本能によるもの

結論から言ってしまうと、いじめとは生存本能がさせているものだと思う。

そう思う理由は、誰も『いじめ』なんか教えていないのに子どもはいじめるからだ。
誰もいじめる方法なんか教えていない。親も大人も、わざわざいじめ方を教える人間はいない。
それなのに、子どもも、そして大人もいじめることができる。
誰にも教わらずにできるのだから、いじめとは生存本能によるものであると言えるのではないか。

そう仮に考えると、いじめる意味も見えてくる。
いじめることでどうなるか。それは排除だ。
排除することでどうなるか。それは自分に回る取り分を増やすことができる。
そういうとちょっと腑に落ちないかもしれないが、時代を狩猟時代で考えてみてほしい。
どうして狩猟時代を出すかというと、人間がもっとも長い期間を過ごした時代が狩猟時代であり、その時代の本能は今も受け継がれているからだ。

狩猟時代、食べ物には限りがあった。
誰もがお腹いっぱい食べられるような時代ではない。
毎日獲物が狩れるわけではない。
毎日果物がとれるわけでもない。
空腹で餓死することもあっただろう。
そんな状況下で生き延びるためには、自分の取り分を分け与えられた分だけを待っていては生きていけない。
狩猟時代、人間は集団で狩りをしていた。
一人で生きていくことはできない。
だけど、大きすぎる集団になれば、取り分は減る。
だから、集団から生きる力の弱い者は排除し、強い者たちだけが生き延びる。
そのために、いじめるという行為が必要だった。
…というのがぼくの仮説。

弱い者いじめは生き延びる知恵

いじめと言えば、弱い者をいじめているのを想像する。
どうして弱い者をいじめるのか。
強い者をいじめないのか。

それもまた、生き延びるためと考えれば理屈はつく。
弱い者は狩りができない。
弱い者は食べ物を得ることができない。
弱い者はただのごく潰し。
分け与えられるのを待っているだけの存在など、狩猟時代においては集団の足手まといにしかならない。
弱い者を養う余裕など、狩猟時代には無い。
だから排除する。
いじめて、この集団から出て行けと排除する。
そうやって、生き延びてきたのが、ぼくたちの先祖ではないだろうか。

弱い者をいじめ、排除することは、集団が生き延びる上での知恵なのではないかと思う。

いじめに大した理由が無いのも排除が目的だから

ぼくがいじめられてた理由の一つに、おでこが広いというのがあった。
今思えば、どうしてそんなことでいじめられなきゃいけないのかと本当に理不尽に思う。
だけど、いじめとはそんなものだ。
大した理由でもない、それこそ何のかかわりもないようなことをつついてくる。
でも、排除が目的だとすれば、いじめに大した理由が無いことも納得できる。
要は、いじめるきっかけになれば何でもいいのだ。
何かが自分と違うこと、それだけでいじめる理由になる。

だから、いじめる理由について深く考える意味はない。
はっきり言えば、『自分と違う』ことが理由なのだから。
そしてそれをきっかけに、排除できればそれでいい。

生存本能であればいじめは無くならない

いじめを生存本能の一つとしてみれば、解決することがどれだけ難しいことなのかはすぐ分かると思う。
誰にも教わらなくてもでき、やめろと言われてもやめることができないのだから、無くすことは不可能だろうとぼくは思っている。

いじめを肯定したいわけじゃない。
だけどいじめを無くすのは、生き物が死なないようになるのと同じレベルで難しいのではないか。
生存本能を覆すような、何万年もかけて培われてきた本能を変えてしまう方法を、ぼくは知らない。

必要なのはいじめへの対抗策

ぼくがいじめに対して必要なのは、無くすことではなく、いじめにどう対抗していくか、対抗策を考えることだと思う。
それは、いじめが無くすことはできないものだからだということと、もう一つ理由がある。
いじめを克服した人間は、いじめられる前はもちろん、いじめる人間よりも強くなるという、ぼく自身の経験談からそう言えるからだ。

ぼく自身がいじめられたことについては、↓の記事で紹介しているので気になった人は読んでみてほしい。

https://note.com/seiseiseihon/n/nea342594eea0

ぼく自身、今でこそ人より精神が図太いと言われることもあるけれど、昔からそうだったわけじゃない。いじめられるくらいにはひ弱だった。
それが図太くなった原因は、間違いなくいじめを克服したことにある。

いじめは無くせない。
だけど、克服することはできる。
だから、より有効な方法として、無くすことよりも、対抗して克服する方法を考えたほうがいいと思う。

いじめは生きる力を得る重要なきっかけ

もしぼくがあのとき、やり返すことなく、いじめを克服できなかったらどうなっていたか?
多分だけど、今のような生き方は出来ていないだろう。
今のような、無職だけど平然と生きている強さは無かったはずだ。

そう思うと、いじめられたこと、それを克服したことがぼくに生きる強さを与えてくれたきっかけになったと思う。
そして、いじめられるということは、そのまま大人になったとき、社会で生きていくことができないぞという警鐘を鳴らしているのではないかと思う。

実際、社会で生きづらさを感じている人は、子どものときにいじめられてそこから逃げてきた人たちが多いように感じる。
そういった意味では、強くなるチャンスをふいにしてきてしまったのではないかと残念な気持ちにもなる。

やはり、いじめられる子というのは、どこか弱さがある。
現代では弱さを受け入れようなどと言う声もあるが、それは見せかけのやさしさでしかない。
生きることは、弱くては出来ない。強くならないといけない。
弱いままで生きることの辛さは、受け入れようなどと言ってる人には分からない。

最後に

ぼくはいじめを、無くそうとしてはいけないと思う。
それは、無くそうとして無くせないというあきらめの果てに、「臭い物に蓋をする」ことになってしまうのではないかと恐れているからだ。
実際、学校ではいじめを苦に自殺した生徒がいたとき、『いじめはなかった』とする発言は耳が腐るほど聞いている。

無くそうとして無くせなければ、隠すしかなくなってしまう。
そちらのほうがずっと問題行為だ。
いじめは無くせないものであり、だからこそ毅然と立ち向かい、克服していくものであるという考えが必要だと思う。

いじめとは何なのか。
どうしたらいいのか。
これがぼくの考え。

読んでくださったあなたは、いじめをどう考えますか?
あなたがいじめを考えるきっかけとなれば幸いです。





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