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イスラム教の論理 4

飯山陽氏の「イスラム教の論理」2018.2新潮新書 のまとめの4回目、最後です。今回はイスラム教徒の神とのかかわり方、世界とのかかわり方です。コーランを聖典とする唯一神信仰のイスラム教は主権在神で、民主主義とは相いれず、神との約束を果たすことで天国に迎え入れられる来世こそを目標にしています。この本を読んで、イスラム教との共存は、用心と覚悟が問われると感じました。


民主主義とは絶対に両立しない

自由主義国内でも「宗教を風刺する自由」を認めない

預言者ムハンマドへの冒涜は死刑が妥当

デンマークでの出来事

・2005年9月 デンマークの高級紙 ユランズ・ポステン 文化担当編集長フレミングローズの記事「イスラム教徒には、近代的で世俗的な社会を拒絶する者がいる。かれらは特別な立場、つまり彼ら自身の宗教的意識に対する特別な配慮を要求する。これは現在の民主主義および言論の自由と両立しない。そこにおいて人々は、侮辱や皮肉そして揶揄に耐えなければならない」 この記事とともに預言者ムハンマドの風刺画12点を掲載した。
・これに対し、デンマークのイスラム教団は、「風刺画掲載は刑法違反」と警察に告発、シリア、イラン、アフガニスタン、パキスタン、リビア、ナイジェリアで、イスラム教徒の大規模デモが発生、デンマーク大使館が放火され、キリスト教会が襲撃され、死者も発生した。
・イスラム教指導者ラエド・ハラヘルが抗議「イスラム教は民主主義よりずっと優れた世界一の価値基準」

フランスのシャルリー・エブド紙襲撃事件

・シャルリー・エブド紙がユランズ・ポステン紙の風刺画を転載、以後、新たな預言者ムハンマドの風刺画を度々掲載
・2011年 事務所に火炎瓶。
・2015年 武装勢力が事務所を襲撃し、編集長、風刺画家ら12人が殺害された。

穏健派イスラム法学者の説明

・2005年のデンマークでの騒動について、ユースフ・カラダ―ウィーは「西洋人は絶対の自由があると信じているが、それは勘違いであって実はそんなものはない。西洋人と自分たちで異なるのは、どのようなルールを採用し、どこで線引きをするかという点においてだけ」と語り、ルールがあるのなら、神がつくったルール(イスラム法)に従うのが一番いいに決まっている。と示唆した。

・コーラン第2章212節「現世の生活は不信仰者たちにとっては魅惑的である。そしてかれらは信仰者たちを嘲笑する。だが(主に対して自分の)義務を果たす者は、復活の日にかれらの上位にたつであろう。」

前提とする価値基準が全くちがう

主権在神、人間は神の奴隷

・民主主義は、民衆が主権を持つという思想、政体だが、イスラム教では神が主権をもつ。
・イスラム教では、創造者たる神が主人で、神が創造した被造物たる人間はその奴隷であり、神の命令には絶対に従わなければならない。
・イスラム教徒は、絶対者である神の定めた法(イスラム法)に従うことが義務づけられており、新たな法を作ったり変更したりする権利は認められない。イスラム教徒の生き方とは、現世ではイスラム教の聖典コーランに基づくイスラム法を遵守し、来世で救済されることである。

結婚の自由

・イスラム法では、夫と妻の権利・義務、離婚の条件は異なる。婚姻は妻の身分後見人と夫が締結する契約で、妻の意志は勘案されないのが基本。
・1948年世界人権宣言の批准に際し、サウジアラビアは第16条(結婚の自由)と第18条(宗教変更の自由)に賛同できないとして棄権した。

信教の自由

・イスラム教に信教の自由はない。心の中で何を信じようとも咎められないが、それを表明する自由がない。
・イスラム教徒の子どもは生まれながらにイスラム教徒であり、棄教は許されない。イスラム法では棄教は死刑。
・異教徒がイスラム教に入信するのは歓迎するが、一度イスラム教徒になった者が信仰を捨てることを決して許さない。棄教者には地獄行きが決定づけられる。

世界人権宣言と相いれないイスラム教

・イスラム教諸国の多く(エジプト、シリア、イランなど)は世界人権宣言を批准しているが、結婚、信教の自由はない。 
・奴隷制度についても、世界人権宣言は禁じているが、イスラム教では、女奴隷を性奴隷にすることを神に認められた正しい行為としている。

・世界人権宣言第4条「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する」
・世界人権宣言第16条1項「成人の男女は人種、国籍または宗教によるいかなる制限をも受けることなく、結婚し、家庭をつくる権利を有する」「成年の男女は、婚姻中およびその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する」「婚姻は、婚姻の意志を有する両当事者の自由かつ完全な合意によってのみ成立する」
・世界人権宣言第18条「すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む」

イスラム教が信徒にあたえるもの

・イスラム教徒が絶対服従を誓う神は、人間の産物である普遍主義を凌駕する異次元の存在。その神が定めたルールに従うことで得られる充足感、来世で救済されるという安心感こそイスラム教徒が求めるもの。
・現世では努力が報われないことも多く、成功が実力でなく運に左右されることも多々あるが、善行(神が求める行いであって道徳的行為ではない)は行った分必ず来世で報われる。

根源的問いに明解な回答

・自分がこの世に生まれたのは、神がそれを望んだから。
・自分はこの世に生まれてきた理由は、神を崇拝するため。
・人が自分をどう評価するかと悩む必要もない。イスラム教徒にとって気にすべきは、神からの評価のみ。
・人生とは、現世ではなく来世で報われるためのもの。人生の目標は来世にある。
・何が善で何が悪かの判断に迷ったり悩んだりすることもない。神が善としたものが善であり、悪としたものが悪。
・人間の理性による判断は、判断する人や状況によって異なり、矛盾することもある。ゆえに、善悪の判断は理性ではなく、神の啓示に求める。イスラム教においては、判断の源は理性ではなく、神の啓示。理性は、啓示から判断を導出するための道具。

現代の科学の成果も1400年前の啓示にある

・母胎内の胎児の発達過程など
・神は全知全能であるので、人間がつくりだしたつもりの科学的成果もすべて既にコーランに書かれていると信じ、コーランの記載をそれにあわせて読み取る。

イスラム教以外の宗教への態度

・イスラム教が唯一の正しい宗教であり、他の宗教はすべて劣位にある。
・(日本人を含む)多神教徒は征伐の対象 
・イスラム教徒でない西洋人は真理を受け入れず、地獄行きを決定づけられた愚かな異教徒。
・ユダヤ教徒とキリスト教徒は人頭税を払えば、信仰を保持することは認めるが、教会建設、十字架掲示、布教などを禁じる。
・異教徒が儀礼行為を自由に行うことを禁じる。
・ただし、実際に外交の場で、他の宗教を劣位とする教義を正直に表明する国はサウジアラビアなど少数。

イスラム教には民主主義、自由が内在している

・イスラム教には西洋由来の民主主義などよりずっと正統な、神によって規定された民主主義がある。
・コーラン第42章38節「互いに事を相談しあう」のをシューラ―と言い、これをイスラム的民主主義の根拠とする。西洋より早く民主主義に言及したもので、この神の啓示した民主主義の方が、人間の産物たる西洋流民主主義より優越している。
・「神に従うかどうかを選択する」神が認めてくださっている自由は、西洋の自由よりも価値として優越している。(その自由には結果責任があり、神に従わない限り、来世で救われるという報奨はない)

西洋の「民主主義」、「言論の自由」は認めない

・創造主である神は全知全能であり、神の知識・認知と、神の創造物である人間のそれは圧倒的、決定的に異なる。
・西洋の「民主主義、言論の自由」を認めず、イスラム教徒や預言者に対する皮肉や揶揄、侮辱を許容することはない。
・アズハル総長ムハンマド・サイイド・タンターウィー「神や預言者を冒涜する者は、世界のどこであれ国連加盟国の全てにおいて厳しく罰せられるべき」➡「預言者を冒涜する自由」を標榜する西洋流民主主義にかわり、イスラム的秩序こそが世界に行き渡らなければならない。

誇り高く、侮辱を許さない

・守るべきは名誉であるがゆえに、尊敬と模倣の対象である預言者ムハンマドのみならず、イスラム教徒を侮辱することは認められない。
・カラダ―ウィー「コーランは預言者ムハンマドを描くことを禁じていないが、スンナ派では、偶像が信者の心の中にある理想像を損ねることのないよう、ムハンマドを描くことを禁じている」「(西洋人がムハンマドの)風刺画を描くというのは、預言者ムハンマドを不当に扱いイスラム教徒を侮辱する行為で、こうした侮辱は、植民地時代の西洋人のイスラム教徒に対する支配、偏見に由来している」。

・2015年のシャルリー・エブド紙襲撃事件(預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに対し、武装勢力が事務所を襲撃し、編集長、風刺画家ら12人を殺害)に対し、在英イスラム教徒の78%が「風刺画掲載を非常に不快に」感じ、11%が「攻撃されてもやむを得ない」、24%が「風刺画作家への暴力は絶対に正当化されないとはいえない」と答えた(BBCによる調査)。
・一方、フランスの裁判所は、イスラム教団の告発による「ユランズ・ポステン紙がイスラム教をテロと結びつけるようかの印象を与える漫画を掲載した」とする刑法違反の訴えを退け、同紙編集長に無罪判決を下した。

・パキスタンの対テロ裁判所は、30歳のパキスタン人男性被告(2017年Facebook上で預言者ムハンマドを冒涜)に死刑判決。これに対し、国際人権団体アムネスティは「表現の自由や信教の自由という権利をインターネット上で平和的に行使したというだけの理由で、人が法廷で裁かれるということがあってはならない」と批判。

ロヒンギャ問題は西洋的民主主義の欠陥

・ミャンマーでは、指導者のアウンサンスーチーが「ミャンマーの人権と民主主義確立のための非暴力闘争」によって、1991年ノーベル平和賞を受賞した。しかし、氏は「仏教の慈悲・慈愛」を掲げながら、2016年からの軍によるイスラム教少数派ロヒンギャの弾圧には無力だった。
・この状況は、イスラム教徒から見れば、民主主義という「民意」を背景とする政治の欠陥がもたらしたイスラム教徒の窮状であり、アズハル議長は「ユダヤ教徒やキリスト教徒、仏教徒が虐殺されたなら世界はもっと早く行動を起こしたはず」と異教徒によるイスラム教攻撃を批判した。

イスラム法は完全無欠

・イスラム教は完成された宗教で、その中にすべての答えが既に用意されている、宗教の最終形である。
・ムハンマドは最後の預言者であり、その後神が新たな預言者をえらび、新たな啓示を下すことは想定されていない。

・イスラム法は、コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)から演繹的に導出され体系化されたもので、神の法である。
・イスラム法は人間生活のすべてを規定しており、イスラム法に従って生きることは神への服従義務を果たすに等しい。
・イスラム法は完全無欠の法であり、時代、場所で変わることはない。古典的イスラム法規定は今でも生き続けている。
・ただし、法規定の適用には可変性、多様性があり、イスラム法学者が人々の慣行を勘案して判断をくだす。

制定法を施行しているイスラム諸国

・現在のイスラム諸国では、一般に制定法(ここでは人間が定めた法の意)が施行されている。イスラム法をその「法源」として位置づけるか、一部のイスラム法規定を制定法に採用しているが、イスラム教の理念どおりにイスラム法で統治している国はない。

「イスラム法による統治」は当然賛同すべきイスラム教の理念

・イスラム教徒の多くは、イスラム法によって統治していないことを正しいとは考えていない。
・制定法がイスラム法に従っていないのは悪いことだと回答したのは、(イスラム教徒のうち)パキスタン91%、アフガニスタン84%、パレスチナ自治区83%、バングラデシュ83%、モロッコ76%。 また、イスラム法を国の法にすべきと回答したのは、アフガニスタン99%、イラク91%、パレスチナ自治区89%、マレーシア86%、モロッコ83%、バングラデシュ82%、エジプト74%(39か国38,000人2008~2012年にビューリサーチセンターが調査)

信徒の多くがイスラム法上の法定刑執行を支持

・死刑は世界で少なくとも1032件。多い順に、中国、イラン、サウジ、イラク、パキスタン(中国以外はイスラム教国で、刑法にイスラム法の極刑を取り入れる)(2016年 アムネスティ発表)

・「イスラム法上の法定刑を執行すべき」と認識するイスラム教徒は、パキスタン88%、アフガニスタン81%、パレスチナ自治区76%、エジプト70%、マレーシア66%、キルギス54%、タイ46%、インドネシア45%。(39か国38,000人2008~2012年にビューリサーチセンターが調査)
・「姦通者に対する石打刑(石を投げつけて死に至らしめる)」を認めるイスラム教徒は、パキスタン89%、アフガニスタン85%、パレスチナ自治区84%、エジプト81%、。
・「棄教者に対する死刑」を認めるイスラム教徒は、エジプト86%、ヨルダン82%、アフガニスタン79%、パキスタン76%、マレーシア62%。

イスラム刑法を施行する国

・2014年ブルネイはイスラム刑法の施行を発表。姦通、同性愛行為に棒打ち刑か懲役刑。
・インドネシア(アチェ州)では、姦通、窃盗、飲酒、背教、同性愛行為などに鞭打ち刑などを金曜日の集団礼拝後にモスクの前で執行し、時にテレビ中継。

民主主義国でイスラム法を求めるイスラム教徒

・フランスは憲法第一条で「不可分で、非宗教的で、民主的で、社会的な共和国である」と規定し、2004年に公立学校で宗教を誇示するような表彰を身につけることを禁じる法を制定した。それに対し、2016年在仏イスラム教徒(過激派を除く)の29%が「フランス共和国法よりもイスラム法の方が重要」、60%が「学校や大学で、女性に頭髪を覆い隠すスカーフの着用を認めるべき」と回答した(調査会社Ifop)
・2016年12月ドイツのメルケル首相「国の法はイスラム法よりも優先される」と発言しなければならないほど、ヨーロッパでは深刻な問題。

イスラムファッション

・ヨーロッパ諸国では、顔を見せあうことは民主主義社会の成立に不可欠な要素であり、イスラム教徒女性が家族以外には顔を隠すニカーブは、女性の男性に対する服従の象徴と捉える。したがって、ヨーロッパ諸国がニカーブ(顔を覆うベール)を禁止するのは、イスラム教敵視や治安上の理由ではなく、ヨーロッパの普遍的価値に反するからである。
・ニカーブ禁止法は最初にフランスが施行し、ベルギー、オーストリアが続いた。公共の場でのニカーブ着用を禁じたオーストリアでは、ニカーブを外すことを拒否した人は警察に連行され150ユーロが課せられる。
・2017年 チュニス女性が、ブリュッセル空港で、入国審査でニカーブをはずさず、本人確認ができないという理由で送り返された。すなわち、この女性は、イスラム教の信仰を主張しつつ、ベルギーと言う不信仰国に入国しようとしていた。

・イスラム教徒女性が慎み深さを示すために体を隠す程度はさまざまで(頭髪だけ~全身)、隠している部分が多いほど敬虔というわけではない。
・エジプトでは、イスラム教徒の女性は、ニカーブに加え、手先、足先まで布で覆い隠すことこそが女性の慎み深さの象徴だと信じており、他方、全身を布で覆いかぶせば、家庭の外で仕事をしてもいいと認識している。

神との関わり方

礼拝の効用

・誘惑に負けそうになる時は神を唱念し、コーランを読み、礼拝せよ。
・最も大事なことは、神を唱念することで、神はあなた方の行うことを知っておられる。
・1日5回の礼拝は、神と向かい合う貴重な時間、心の安寧が得られる、体を動かすリラックス効果があるなどと言う。
・礼拝時の身体の動きもイスラム法で規定されているが、各動作の意味することは「神の領域」に属することで、人間はあれこれ考えてはならない。
・エジプトでは、礼拝を尊重するあまり長時間になり、労働時間が短い。これについて、エジプト出身の著名法学者カラダ―ウィー「礼拝は重要だが10分間行えば十分」

イスラム教徒は常に「神の名にかけて」

・今生きているのは、神がそれを望んでいるから。そして多くの恩恵をもたらしてくださる神は、人間がそれを忘れないことを望んでおられる。それゆえ、一日に何度でも「ビスミッラー」と言う。(ビスミッラーとは、「慈悲深く慈愛あまねき神の名にかけて」というアラビア語のフレーズの省略形)
・食事の前、スピーチの冒頭、手紙の冒頭、他人の家に入るとき、電車に乗るとき、コーランの各章句の冒頭などに「ビスミッラー」

・「絶対にそうだ!」と強調したいときは「ワッラーヒ(神かけて)」 「本当?」と念を押したいときは、「ワッラーヒ?」
・「すごい!」と感嘆するときは、「タバーラカッラー(神こそが祝福)」「マーシャーアッラー(神のお望みのままに)」
・これらは慣用句的に定着している上に、他に適当な表現が思い浮かばないことが多いため、私など(著者 飯山陽氏)は異教徒でありながら、アラビア語を話す際は「アッラー」を連発するのが常」

全知全能の神にしたがう

・未来のことを語る際の冒頭句「インシャーアッラー(神がお望みならば)」「インシャーアッラー、明日15時に会いましょう」に対し、「インシャーアッラー」と返事する。意味するところは、両人が15時に会うと神がすでに決めていた場合には会えるだろうし、決めていない場合には会えない。
・インシャーアッラーと言う会話の前提にあるのは、神は過去も未来も知っているという神の全知全能性に対する確信。すべての創造者であり、時間も場所も創った神は、時間も場所も超越している。「いつ来てくれますか?」「インシャーアッラー」
・神は人間を創造する前から、すべてを知っていて、すべてを碑板に書き留めており、現世で起こることはすべてそこに書かれている。神がすでに決めたことしか、現世で起こらない。

・イスラム教の論理では、神の全知全能性の前における謙虚な態度「インシャーアッラー(神がお望みならば)」は、約束を守る義務(コーラン5章1節「あなたがた信仰する者よ、約束を守りなさい」)と矛盾しない。
・イスラム教にはイスラム教の論理があり、その枠内でおいて完成され調和がとれている。それゆえに、それらを共有しない人が議論しようとしても、互いに議論が嚙み合わない。

1日に何回も神を讃える

・「アッラーフアクバル(神は偉大なり)」は、1日5回の礼拝の時間を知らせる呼びかけとして、また礼拝中何度も唱えることが規定されている言葉。
・過激派によるテロ事件で、犯人が「アッラーフアクバル」と唱えて、銃を撃ち、ナイフで切りつけたのは、ジハードも偉大なる神を讃える行為として行っているからで、テロ実行の合図ではない。
・コーラン第33章41節「あなた方信者よ、神を常に唱念しなさい」とあり、常に「アッラー」と唱え念じることはイスラム教徒の義務で、最も簡単かつ優れた儀礼行為。唱念で神の恩に感謝し、神は喜び信徒を見守り、悪魔は遠ざかり、心が安らぐ。

神に与えられ神にささげる人生

・神は自身を崇拝させるために人間を創造した。ゆえに、人間の体、心、時間、すべてが神を崇拝するためのものでなければならない。
・人間は神から体を預かっているだけなので、自分の好きなように勝手に自分の身体を使ってはならない。
・今生きているのは、神がそう望まれ、生かしている証なので、生きている間はひたすら神を崇拝しなければならない。

現世を生きてこそ来世で天国に行ける

・神が命じる生き方をしなければ天国に行けない。
・「現世の生活は偽りの快楽にすぎない(コーラン第3章185節)」 ゆえに、「(現世では)信仰して善行に励む(13章29節)」ことが肝要。そのように「信仰して善行に励むものには、われ(神)は川が下を流れる天国に入らせ永遠にその中に住まわせよう(第4章57節)」

預言者ムハンマドは過ちを犯さない最高の手本

・預言者ムハンマドの言行は神の啓示に基づくとみなされており、その言行録(ハディース)は、コーランに次ぐ権威がある。イスラム教徒の行動の具体的手引きであり、努力目標。
・預言者ムハンマドの生涯は、非常に質素な生活の中での迫害と受難と戦いの日々。不屈の精神と神の支援により彼の率いるジハードは成功し、アラビア半島の大半を支配した。
・ISは軍事的劣勢に立たされた時の苦境を常に預言者ムハンマドのそれになぞらえ、「真の信仰者が勝利を収めるまでに、迫害や受難というのは必ず通らねばならない道」と説く。「戦いの最中に斃れても、神は殉教者として天国の一番高い所に迎え入れてくださる」
・ムハンマドは、おそらく世界で最も人気のある男性名。1500万人はいるとされ、ヨーロッパ、インドなどイスラム諸国以外でも人気ランキングの上位の常連。イギリスでは2012年以降5年連続で一位(スペルの違いはある)

安心と優越感をもたらすイスラム法

・イスラム法は、何をするべきか、してはいけないか、やらない方がいいこと、やった方がいいこと、まで人間生活の全てを規定している。
・イスラム法に従って生きることは、イスラム教徒にとって窮屈な生活ではなく、習慣化した当たり前の生活に過ぎない。必ず天国に入ることができる完璧なマニュアルであり、イスラム教徒はそれがあることで安心して生きられると感じる。
・人間の理性によってでは決して知り得ない「正しい道」を知っているという自信は、イスラム教徒の優越感の源。

従うも従わぬも自由 最後を決めるのは神

・1日5回の『礼拝』は義務だが、どの程度義務を果たすかは信者の自由。礼拝すれば善を行ったことになり天国に一歩近づくが、怠ったからといって現世での罰はない。老人、病人、旅人は、礼拝の短縮、まとめての実施、省略などが認められている。
・『飲酒』は禁じられており、飲酒をすることは悪を行うこと。神の命により鞭打ち刑に処せられ、天国から遠ざかる。政治権力者がむち打ちの刑を行わなければ、義務を怠った、すなわち悪を行ったとされる。(サウジアラビア、イランでは飲酒を全面的に禁じている)
・トルコのイスタンブールのテラスでワインを飲んでいた女性は「イスラム教に強制はない。だから、スカーフをかぶらないし、お酒をのむ」と言った。コーラン第5章90節は「あなた方信仰する者よ、まことに酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい」と明示するが、この女性は、第2章256節の「宗教に強制なし」を根拠とした。
・これは矛盾に見えるが、イスラム教徒は、全知全能の神が矛盾した啓示をくだすはずはなく、矛盾して見えるのは人間の浅慮による。コーランを良く知らない人間が表面だけにとらわれるから、そう見えるだけ。よく調べれば一見矛盾していると思われる部分はすべて調和し整合性がとれている。と考える。
・神が、終末の日に、生前に行った全行為の総決算として審判を下す。

ジハードは必ず報われる

・ジハードは義務であるが、どんなに小さなジハードでも必ず報われる。
・ISなどのイスラム過激派は、シリアやイラクなどでイスラム教徒がキリスト教徒に惨殺されている事実を強調して、神が命じるジハードを一緒に戦おうと呼びかける。そして、啓示的根拠をもとに、「神の法だけに従う者が救済される。残された家族についても神がよく取り計らってくださるので心配はいらない、人間が畏れるべきは神のみである」と諭す。

入信すれば来世まで悩みなし

・「この世のしがらみ」から解き放たれることを希求する人にとって、神と信者が聖職者などを介することなく直接向き合うイスラム教は最適な選択肢。イスラム教の論理体系に飛び込み、ひたすら神を信じ自分を神に委ねればよい。

穏健派と過激派の根っこはひとつ

イスラム社会の常識と日常

・イスラム教徒にも、イスラム法の規定遵守にそれほどこだわらずに暮らしている人が多くいる。イスラム法を厳格に解釈すると、サッカー、ダンス、音楽すべてが禁止されるが、サッカーは中東で大衆的な人気のあるほぼ唯一のスポーツであり、結婚式には音楽とダンスがつきもので、アラブ世界にも巨大な音楽市場がある。
・本来禁止されている、異教徒の友人、飲酒、タバコ、賭け事をするイスラム教徒は少なくない。世俗的で何が悪い、と開き直る人もいれば、神は許容してくださっていると信じる人もいる。

穏健派と過激派の関係

・イスラム法の規定遵守にこだわらないイスラム教徒は、穏健派であるか、戦略的に穏健派をよそおう人である。
・イスラム法を徹底的に遵守するイスラム教徒には、過激派もそうでない人もいる。イスラム教徒自身が、互いに「あれはイスラム教徒ではない」と罵りあっている状況である。

・民主的、世俗的、穏健で、異教徒にフレンドリーなイスラム教徒を「正しい」イスラム教徒として歓迎するのは、イスラム法に基づく世界の樹立をめざして武装蜂起する「厄介な」イスラム教徒に対する恐怖と嫌悪の裏返しの態度である。
・しかし、付き合いやすい「穏健」なイスラム教徒を支持しても、「過激」なイスラム教徒がいなくなるわけではない。むしろ、異教徒が「穏健」なイスラム教徒に味方すれば、「過激」なイスラム教徒は、それを「穏健」派の不正の証拠ととらえ、ますます「過激」な解釈に固執する。

イスラム教徒の自然な姿

・過激派の目的は、西洋の価値観に飼いならされ、すっかり腰抜けになってしまったイスラム教徒を覚醒させ、改めて己の全てを神に捧げる信徒の共同体として一致団結してジハードを行い、世界制覇を実現すること。
・イスラム教の確立をめざす過激派は、ジハードはイスラム教それ自体に対する試練ととらえ、自分たちの攻撃を「正義のテロ」と自称する。

・イスラム教の神は、国や地域の枠組みを越えて全イスラム教徒がひとりの指導者のもとに結束しジハードを実行することを命じている。イスラム教徒である限り、穏健派もこれを否定することはできない。
・全イスラム教徒がひとりの指導者のもとに結束することこそ、あるべき理想的なイスラム共同体像である。と、神がそれを目指すよう命じている以上、イスラム教徒としてはそれを志向するのがむしろ「自然」。
・その自然な状態から反対の「不自然」な方向へ誘導するには、嘘だとわかっていて皆で嘘をつきとおすような、そういった覚悟が必要。

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日本人の宗教観とは異なり、イスラム教の聖典であるコーランはイスラム教徒の日々の生き方をすべて定め、信徒はそれに従って生きています。コーランの中で、神は世界をイスラム化するために最後まで戦えと命じており、穏健派は異教徒を熱心にイスラム教に入信させることで、過激派は暴力的ジハード(テロ)を行うことで神の求めにこたえています。
コーランはイスラム教徒にとって不滅の絶対的な神の啓示ですから、イスラム教徒がふえるにつれ、ジハードも世界中でふえていく運命にあります。また、通常はジハードに参加しない穏健派も、イスラム教徒の土地に不信仰者が侵入したり、イスラム教徒の軍と異教徒の軍が対峙したり、イスラム教徒が蹂躙される時、全てのイスラム教徒の義務として立ち上がらなければならないと神は命じています。個人的にも、困難が伴う人生の中で、イスラム教徒としての正統な生き方に目覚める機会は数限りなくあるように思われます。
日本人の宗教観とは異なり、イスラム教徒にとってイスラム教は政治の上に存在するもので、宗教というよりも世界をイスラム化する思想です。イスラム法は国法を超越していると考えるイスラム教徒にとれば、異国でもイスラム教徒が増えれば、イスラム法によりその国をイスラム化するのは、神の命に従う正しい生き方なのです。
多文化共生が日本人以外にとっては何を意味しているのか、震えるような事実です。

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