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「義理」ってなんだろう?『菊と刀』パート2

前章で、日本人は受けた恩は必ず報いなければならないということが分かった。パート2では恩の細分化として「義理」という概念を分析していきたい。

バレンタインに義理チョコをもらったりあげたりした人はどれくらいいるだろうか?日本人は当然のように「義理」という単語を使うが、外国人に説明するときに「義理」という言葉をどう訳せばいいのか考えてみてほしい。

説明に困るのも当然である。ベネディクトによると、「義理」に相当する英語は存在しないのだ。さらに、義理という文化は日本人独特であり、この義理を知らずして日本人を知ることはできないと断言しているのである。

義理をより理解するために、「義務」という単語を用いて比べてみよう。一見似ているようにも思えるが、ベネディクトは両者の違いを次のように説明している:

義務:これは、精一杯返しても依然として一部しか返したことにならない。しかも期限はない。例えば、天皇や国に対する責務、両親および仕事に対する責務があげられる。

義理:与えられた行為と同じ量だけ返すべきものと見なされている。返済には期限がついている。

  1. 世間に対する義理

    • 主君、家族や他人に対する責務

  2. 名に対する義理

    • 侮辱されたり、失敗を責められたときに汚名をすすぐ責務

    • 自分の失敗や無知を認めない責務

    • 十分な節度を保ち、不適切な場で感情をあらわにしない責務

このように、「義理」という言葉には様々な意味が含まれていることが分かっただろう。義務と義理の違いとして、ベネディクトが挙げたのは、義務は返すことが生まれた瞬間に定められており、仕方のないものだが、義理を返す行為は終始その人を滅入らせるということだ。

義理チョコを例に挙げてみよう。義理チョコはまさに世間に対する責務であり、普段自分がお世話になっている上司、親戚やクラスメイト(総じて世間)に対し、恩返しの形としてあげることが多いだろう。しかし、誰かに義理チョコを与えたことは、同時にもらった人にそれを必ず同等の価値で返済する義理が生じるのである。それがホワイトデーであったりするのだ。

もし、ホワイトデーで頂いた義理チョコを返さなかった場合、その人は恩知らずとして世間から厳しい目を向けられるのではないだろうか。バレンタインやホワイトデーは特別な日に行われる儀式であるから、義理のやり取りが可視化されやすいが、気づかないだけで我々は常にこのやり取りを続けているのだ。

ベネディクトによると、アメリカでは手紙や贈り物を受け取っても、銀行のローンや利息払いを返済するような几帳面さは必要だと思わない。しかし、日本では義理を返さないと金銭の債務不履行と同様に破綻した人と見なされるという。

そのため、生活においてアメリカ人は恩義が生じることなどつゆ知らず、気軽に発言したり行動したりしているが、日本人はいつでも恩義が生じるかもしれない複雑な世の中を用心深く渡っているのだ。

授業中に質問がしにくいこと、おごられるのが嫌いな人、人から物を借りることが苦手な人。
これらはすべて「義理」という返済の責務が我々に課せられるのを恐れているからなのではないだろうか。

次に紹介されるのは名に対する義理である。

名に対する義理とは、自分の評判をきれいにしておく務めのことである。ベネディクトによると、日本人は非常に侮辱されることや自分の評判が傷つくことを気軽に受け流すことができないのだ。

例えば、小学校の頃、先生が知らない知識に対してまるで知っているかのように振る舞ったことはあっただろうか。これは教師としての名に対する義理であり、知らなくても教師として知っているふりをしなければならないのだ。日本は文化的に当人と職業を極端なまでに同一視し、ある人の行動や能力が批判されると、自動的にその人自身が批判されたことになるのだとベネディクトは言う。

さらに、ベネディクトによると、日本人が特異的な点は、自身の保身のためなら腐心してしまうことである。例えば、教師は知らないと認めるより、知っているふりをした方がまだましだと思うことだ。自分の主張が一貫して正しかった時に初めて尊厳が保たれ、過ちを認めてしまったら辞任か辞職を選ばなければならないといった考え方になるのだ。

さらに、日本人は非常に競争を嫌うという。競争において敗北してしまった場合、その負けが「汚名を着せられる」ことになるのだ。敗北は多くの場合闘争心を燃やすことではなく、危険な抑鬱因子となり、当人から自信を奪うのだという。これは日本とアメリカの大きな違いであり、アメリカでは競争は社会を活性化させる大事な要素だとされている。一方で、日本で行われた心理実験では、被験者に一人で試験問題を解かせた状況と、競争相手がいる状況で問題を解かせたところ、一人だった時の方が断然好成績だったのだ。

日本人は競争相手がいると「負けるのではないか」と憂い、負けてしまうと恥をかくことを強く恐れるのだ。これは日本人が名に対する義理によって煽られている証拠である。

スポーツの試合で負けて泣いてしまう選手、試験に落ちて自殺を遂げた子、仕事でミスをして辞職を考える人。これらすべてが「負ける」ことが自分にとって最大の屈辱だと思っているのだ。

確かに、海外に比べて日本は競争を避けることが多いように感じる。例えば、小学校では生徒の評価を周りと比べるのではなく、その子の過去に照らし合わせてを評価する。さらに、学校は協調性やクラス一丸で何かすることに重きを置く。スポーツにおいてもフェアプレーの精神を大切にしているため、競争よりも協力の精神が強調されることがあるのではないだろうか。

このように、「義理」というのは日本独特の文化の一部であり、日本人の多くの行動原理はこの義理によって説明できるのではないだろうか。みなさんも普段自分がなぜ「悔しい」と感じるのか、人にお返しををするのかを考えてみてほしい。



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