見出し画像

『夜、ねむる前の詩の狂い狩り』

noteをはじめてから、まだ、2ヶ月足らずの私にとっての楽しみのひとつがある。夜、ねむる前に新着の『詩』をあさるように、酔うように、狂ったように、狩るように、かんじることだ。そして、その狂った魂に、「すき」することがここ数日の日課となっている。

そもそも、詩を書こうとする魂が私はすきなのだ。
「私の書いた詩をあなたは本当に理解しているのか」と、問われれば、私の口からは怪しい答えしか出てこない。でも、その、狂ったような魂がすきなのだからしょうがない。私も詩を書くからわかるのだ。書いた本人さえわけがわからない詩がうまれるのをしっている。その魂が私はすきなのだ。もし、朝、我に返ったときに、「すき」がひとつもなかったら。その詩人は、その夜うまれた詩の魂ごと削除してしまうかもしれない。いびつで狂ったような魂がひとつ「すき」ひとつないために失われてしまう。

だから、私は『夜、ねむる前の詩の狂い狩り』をしている。狂ったような詩が(とくに)すきなわけではない。詩を書くという行為じたいが、狂い、どうかしている。そのどうかしている魂がすきなのだ。なくならないでほしいのだ。詩を書くことを止めるときがくるかもしれない。でも、ふとしたときにもどってくればいい。詩の懐はおもったより深いから。
かく言う私は、10年ぶりに詩と文章を書いている。魂は腹のなかでねむっていただけだった。詩情は胸のなかで、今か今かと、どくどくしていた。
真人間のフリした者が、誹謗中傷をためらいなく拡散する世界に、noteの片隅で誰にも見つからずにながれ去ってゆく新着の詩の魂が、私はすきなのだ。

そして私は、詩を「読む」というよりも「かんじる」ように、その詩の魂を狂うように狩りとっている。とても乱暴に。あるいはハンコを押す機械のように。詩の懐はそのように深いものなのだ。詩は罪深い私をいつでも許してくれる。「やあやあ、ひさしぶり、10年ぶりだね。じゃあ行こう」と私の魂を起こしてくれた。

そして、みんなのフォトギャラリーから、49歳の中年男がハートマークを拝借するのは、ちょっとした(照れ屋の)ギャグです。そこは冷静な私です。新着の詩を、老眼の視力でぼんやりしながらなんとなくすきしていることもあります。そんな言い訳の文章を今日は書きました。



この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?