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エッセイのほう

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野蛮で図々しくてくだらないことを書いています。400字~2000字くらいでしょうか。
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#w650

『ほう』

「ほう」と感心してみましょう。 何ごとも「ほう」から始めてみましょう。「ほう」には含みが持たせてあります。一例をあげましょう。「ほう」と言いながら、その間に脳をフル回転させて見ましょう。二の句が出てこない時の時間稼ぎの「ほう」です。そのわずかな時間で失言も防げるでしょう。 また、よりよい対人関係づくりの為の一歩だと思って、毎日トーンを変えて「ほう」の練習を心掛けてみましょう。リラックスして反響する風呂場がいいのではないでしょうか。そこから、メロディーが出てきたら儲けものです。

ハイテック。悪くない。軽い。春夏の散歩に良い。ターコイズブルーには付属の紅い紐があった。赤オレンジの靴には水色の紐が付属していた。紐を付け直すか。2種類の紐があるとは、なかなかいいぞ。ハイテック。何年か様子を見てきたかいがあるというものだ。私は、ワンサイズ大きめにしました。

本日は和日柄もよく私も気持ちよくバイクの洗車と整備が出来た。来週の火曜日が待ち遠しい。5連泊のツーリングの装備としてはこんなかんじになった。すでに準備をほぼ終えている。あとは、服装選びだ。寒かろう、暑かろうの可能性がある。メッシュの革ジャンの上に、モッズコートもある。

『一時停止解除』

久しぶりに小説の続きを書いた。 2023年の12月半ば以来の珍事だ。いつまでも、キャラクターたちを『一時停止』状態にしていては申し訳ない。それだけの期間、書かなかったのは、単に寒かったからだ。灯油の移動が面倒だったと、以前に書いた。ほんとにそれだけの理由で小説を中断していた。だらしないったらない。やっと、『一時停止解除』することが出来た。 休薬期間だと言うのに、鼻血は止まらない。前回の点滴後には止まった。きっと点滴の中に白血球を元気にする栄養素が入っていたのだろう。『がんか

『立ちゴゲの退き口』

私はいま、カワサキW650を車検に出している。 私はW650が恋しい。早く跨がって走りに行きたい。だから、オートバイ関係のエッセイが続いている。みなさんはご存知だろうか。オートバイのテクニックのひとつに、『立ちゴケ』というものがある。その名のとおり、オートバイに跨がったまま、「おっとっとと」と、バッタリ倒れるテクニックだ。この秋の紅葉ツーリングにも、私はコンビニから国道に出るさいに、このテクニックを使い、衆目の的になった。 このテクニックに慣れた私は、倒れるオートバイから「

『グローブの手入れと人類の暗黒史』

冬恒例のグローブの手入れをした。9双ある。皮革製のグローブだけでこれだけある。雨天用の化学繊維を使用したグローブを入れるともっとある。冬用のインナーグローブもある。なんでこんなにあるのだろと考えて見た。写真右下のグローブが私の初バイク用のグローブになる。四国は香川県でつくられた逸品だ。20年以上愛用している。皮革製品は手入れをしっかり行えば、いじょ~なぐらい長持ちするから、減ることがないのです。 極私的な皮革製品の手入れ方法を書いてみたいと思います。あくまで『極私的な』です

『満プク』

脳のドアが開いてしまったようだ。 これは、久しぶりに日帰りの『走りっぱなし』ツーリングに行ったせいだ。 書かずには眠れない。そんな日もある。脳のドアが開く。そんな日がある。 私のツーリングは、ほとんど走りっぱなしだ。ガソリン給油とたまの珈琲タイムと尻痛の限界超え以外は止まらない。なぜ、そんなことができるのかと言うと、私はオートバイでツーリングしている間中、常に満腹なのだ。 ツーリング中だけ、なぜか腹が減らない。今朝も朝食にバナナ1本食べたきり。走り出せば缶珈琲を2本飲んだだ

『ぽっかり』

私はnoteで『空生講徒然雲』(くそこうつれづれくも、くそこうツーリング)という、タイトルの読み方すら、決めかねている小説を書いている。ざっくりいうと、オートバイで電線の上を走るだけの物語だ。登場するのは、ほぼ、男と女と青猫とオートバイが2台だけだ。 最初と結末は頭のなかにあった。その間の物語がぽっかりあいた状態で書きはじめた。とうとう、その、ぽっかりの手前までは辿り着いた。そして、ぽっかりから逃げるように、ちまちまエッセイを書いている。ぽっかりはひとつやふたつの空洞ではな

『背のびしない文と走』

恐る恐る見る。一月前に私が書いた『文』を。あるいは昨日の『走』を。ふりかえり見る。これは、文章とオートバイにおける『背のびしない文と走』の話だ。 文章を書く。しばらくして、恐る恐る見る。「背のびしてくれるなよ」そんなふうに思いながら読み返し見る。背中につううんと冷たい指が上から下に這う。そんな文が減った。背のびしない文の割合がぐんとふえた。全削除するような文には滅多に出会わなくなった。酔っ払って書いた文でもなければ。でも、すこし、ほんのすこし、背のびしてもいい。小指の爪ひと

『もの思う種』

私はツーリング中に拾いものをする。それは種だ。じっさいにある植物の種のことではない。景色の種。排気音の種。ま夏の種。ま冬の種。町の営みの種。すれちがうオートバイの種。キャリーケースの美女の種。草むしりする老婆の種。途方もない数の種を拾う。そして、私は途方に暮れる。 それらはぜんぶ、私の『もの思う種』だ。見つけて拾うたびに頭の中でパチパチ爆ぜる。脳の『もの思う』一点を狙って爆ぜる。やがてそれは私のことばになることもあればならないこともある。種だ。どこに捨ててもいいだろう。どこ

『朝起きるとどこかがかならず痛い』

いつからだろうか。 朝起きると、どこかがかならず痛いのは。今日は、右手首がずっと痛い。なにもしてないのに、痛い。睡眠前には、あんなに元気だった右手首は、夢のなかで冒険でもしていたのだろうか。 右手首が痛くなる夢の冒険とはなんだ。崖に右手首をかけて、必死に身体を支えていたのか。 では、そのとき私の左手はなにをしていたのだ。私の左手首はいつもどうり。痛みひとつない普段の左手首だ。 崖を両手で掴んでいたのなら、右手首同様に左手首にもダメージが残ったはずた。 私はこう考えた。 右

『金木犀と豚』

私は、関東平野の北の縁をカワサキW650でゆらゆら走っている。日本中がそうだろうが、この土地にも金木犀の香りがいっぱいに満ちている。 秋うまれの私にとって金木犀はとくべつな樹木だ。私がうまれて最初に嗅いだ匂いは、あるいは、金木犀だったかも知れない。だからというわけでもないのだが、暗示にかけられたように、この香りに郷愁をさそわれる。 私はこの文章を、赤城山の麓にある古墳群、『大室公園』の木陰で缶珈琲を飲みながら書いている。持ち込んだヘリノックス(アウトドアの椅子)に座り。力い

革ジャンでねむるということ

ま冬のことだった。部屋の窓をぜんかいに開け放してみた。 「赤城おろし」は今日も手加減を知らないようだ。とうぜん「さむい」、のだが、それが私の狙いだった。部屋を砂ぼこりでいっぱいにしたいわけでもない。このご時世だ。風邪をひきたいわけでもない。 私はいま、心から「ま冬を」必要としていた。発作が起きていたのだ。 それを、「革ジャンで過ごしたい病」としよう。日がな一日をただ無為に革ジャンで過ごしたいという奇病だ。 「なぜ家で、なぜ部屋で、なぜ実家で」、その問いの答えを私はもっていない