#16 ホテル暮らしの日記 : 「なんかいい」

「言葉とは、基本的に嘘である」
というのが、私の価値観の根底にはある。

この前、アフリカ民族のマスクを買った。

バウレ族のプレプレマスク

理由は「なんかいい」から。

私は普段ライティングや編集の仕事をしているので、こういった曖昧な表現は厳禁だ。
必ず、それの何がどのように良くて、どういう状態なのか、事実を提示しなければいけない。
「このホテルは一泊8000円〜15000円とリーズナブルなので、学生から家族連れまで気軽に利用できるうえに、窓側の部屋ではオーシャンビューを楽しめるため、そのコスパの良さからリピーターが多い。」
といったように、批評の中から主観を抜いて、客観的な事実をもとに文章を構成する必要がある。
仮にも「泊まった感じがすごく良くて、女将さんの対応もいい感じで、楽しかった。」などと説明してはならない。

ただ、個人的には、口下手な方がむしろ信用に値すると思ってしまう。
なぜなら感情や感動は言葉にならないからだ。
絶景を見て感動するとき、それがどうして感動的なのかは本来どうでもいい。そう感じたものはそう感じたのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

私は文章を書くのも、口に出して喋るのも、決して苦手な方ではない。これは主観ではなく、今まで出会ってきた人たちにそういった評価をされてきた。
だからこそ分かることがあるのだが、口が達者な人間は、よくないと思っているものを文章で好評することもできるし、いいと思っているものを批判することだってできる。
なので、よくできた批評はまず疑ってしまう。
(これだけ文章表現が上手い人なら、本心を隠して何かの利益のために嘘をつくことだって容易だな)と。
だからこそ、言葉には嘘がこもっているように思えてならない。 
それでいて私は言葉が得意なものだから、本心というものをとにかく見失いがちである。
順番で言えば、本心が先で言葉が後というのが道理であるはずだが、それが逆になってしまうことさえある。そうなるとどうにも難解で、自分で自分がわからなくなる。
そんなことになるくらいなら、やはり口下手でうまく表現できないくらいが正直なような気がしてならない。

「カブトムシ」はカブトムシではないし、「自然」は自然ではない。
世界はもっとシームレスで、全てをつつみこんでいるにもかかわらず、全てが唯一性を持ち独立している。
そんな矛盾した世界に住んでいるので、我々はそれがやりきれずに、言葉にして矛盾のない状態に落ち着けるのが好きなのかもしれない。

言葉というのはそもそも、人間が勝手に決めた境界線に記号をつけているだけに過ぎない。定められた境界線によって、その呼び方も解釈も異なってしまう。
「腎臓」は機能によって定められた境界線に付けられた記号。しかし境界線を変えれば「人体」。
機能によって定められた境界線の解釈を拡大して、概念として解釈するなら、それは「人間」となる。
「椿」もそう。目黒に咲く椿と世田谷に咲く椿は別物にもかかわらず、種という境界線に則るなら「椿」で一緒くた。でも椿の花びら一つ一つは違う形をしているし、香りだって微妙な違いがあるだろう。それを感知できるかは別として。

感覚や実物というものは何にせよ複雑で、決して言葉で全てを表現することなんてできない。でもその複雑さを一人で閉じ込めていけるほど、人というのは強い生き物ではないのではないか。その複雑さをどうにか簡略化して、共通の記号として他者と分担しなければ抱えきれないというのが、人間の脆弱性なのではないか。


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