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その表現に特異性と新鮮さだけを求めたらそれは終わりの始まり。

遠い昔。ある年の年末だった気がします。私は自宅でテレビを見ていました。私が子供の時はもちろんインターネットなどなくて、テレビは家に1つだけでした。

たしかそこで漫才をやってました。家があまりそういうものを観る家ではなかったので、私は食い入るように見ていました。面白かった(でも内容は全部忘れた)。

そしてお正月になりました。特にお年始とかしない家だったのでやはり家では珍しくテレビがついていました。駅伝ではなかったのでおそらく午後だった気がします。私はこれ幸いとテレビの前に座りました。すると昨日観た漫才コンビが出てきました。幼い私は思いました。

「昨日面白かったから、きっと別の面白い漫才を観れる」

しかし、(というか当然なのですが)彼らは昨日私がテレビで観たネタを披露しました。幼い私はものすごくびっくりしたんです。

「これ!昨日観た!なんで同じことやってるの!」

冷静に考えれば、当たり前です。プロとして洗練された表現(ここでは漫才)をいろんな場所で披露するのは。でもその時、子供だった私は自分のことしか考えてなかったので「同じことやってる、ずるい」って思ったんですよね。おもろい。

今、インターネットには色々な媒体が蠢いています。多くの人は自分が精査した表現を少しずつ形を変えて(またはそのままで)それぞれの媒体に発信しています。結果として同じ表現に何度も遭遇することになります。その結果「ずるい」と思わせない様々な表現の工夫がある人と、「コピペ臭がすごいなあ」と感じさせる人がいるなあと感じます。

その表現に特異性と新鮮さだけを求めたらそれは終わりの始まり。そんな表現より、様々な形で残る表現を思う存分味わいたい。

同じ人が様々な形で表現を発信する時に「その表現を面白い!」と第一印象で思わせる力をその表現に持たせたい。そのためにはどうしたら良いのでしょうか。

「文学を読み込む」しかないかなって思います。文学といわれる古い分野は様々な紙媒体で何世代にもわたって残っています。そこに「ずるい」という感覚は生まれてこない。つまり、何世代にも残る表現の残った理由を探るにはやはり「どんな形でも残る表現」を知らなくては話が始まらないと思うのです。

なので、今日も私は本を読みます。本なら寝っ転がっても、途中から読み始めても、途中で止めても誰にも何も言われません。最高かよ。