コロナ大仏の話を聞こうと思ったら「宗教と芸術と日常とは」を自己検証することになった話。
「大仏建てればええやん」
しんどい、辛い状況になった時私はよくこう言っていた。大仏は正義。いや、仏は正義。それは自分の経験でもある。私自身、五百羅漢図に救われた経験があるのだ。
この新型肺炎をめぐる世界で私は日々混乱、動揺している。だから救われたい。大仏カモン。そこで今回私は芸術動画の番組をチケットを購入して拝聴することにした。
宗教と芸術の関係性にはすごく興味がある。そして私はそこにもう1点焦点を加えたい。それは「日常」である。「宗教と芸術と日常」。この三点が溶け合う世界と「宗教と芸術」と「日常」と切り離された世界では明らかにそれぞれでうまれた表現は違うと思うのだ。
私はマレーシアのクアラルンプール郊外で生活している。私の住む場所は外国人居住者が多く、日本人駐在員は比較的少ない場所である。マレーシア的には「マレーシアっぽくない場所」である。でも日々アザーンが聞こえる。
アザーンは時々、異教徒の私でも足を止めてしまうような美しい調の時がある。
徒歩数分のスーパーでは豚肉の買い方にルールがある。「自分で選んで自分でバーコードを出して会計してもらった後自分でしまう(店員さんは一切触れない)」。これはイスラム教が豚肉を汚れと判断していることからである。おいしいのにね。豚肉。でもそれはそれ、これはこれ。このように宗教と日常は密接に結びついている。
さて、話を戻そう。コロナ大仏とはなんぞや。
僧侶でありアーティストでもある風間天心が、新しい大仏造りを企画します。新型コロナ禍によって、人々の中に充満した不安や怒りを浄化し、前を向くためのシンボルが必要だと感じています。そして微弱な光も受信する巨大なアンテナのような、大きな大仏を求めたい。皆様の祈りとご支援によって、大仏が造立されますように。
ちなみに今回の募集は「大仏を建てるためのお金」でなく、「大仏を建てるための勧進キャラバンの費用」とのこと。
「勧進」とは
1.人々に仏道をすすめて、善に向かわせること。
2.寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。
の2つの意味がある。そういえば、歌舞伎の「勧進帳」はまさにキャラバン。
まずは番組の前半は「大仏」について。そもそもただ好きなだけで意味もよくわかっていない、そして最近建てられた大仏についてのレクチャーは本当に面白かった。ちなみに私はマレーシアの前はシンガポールに住んでいた。変わりものなので駐妻界が辛くて私は仏に助けを求めた。それがここ。
ここはブッダの歯が祀られてるそうで私も何回もその実物を見たことがある(撮影不可)。そしてこの寺院は2007年に建設されたとても新しい寺院で近現代史と宗教と日常(経済や政治)が混じり合っていて博物館的にもすごく面白いのだ。
私自身はこの「宗教と芸術と日常」の溶け合いをシンガポールで実感していった。自分が日本の駐妻界が辛くて仏に救いを求めたという心境もあったからだろうか、ここでの僧侶の方の振る舞いには本当に救われた。この寺院の「居心地の良さ」「開かれている感」は日本では感じたことがなかった感覚だった。そこで私は不思議に思ったのだ。
なぜ日本では宗教と生活を切り離すことが推奨されるのだろうか?
宗教と生活が切り離された日本の日常では感染症のような敵と戦う時はどのような心理状態になるのだろうか?
今回のコロナ大仏建造第一段階が「勧進キャラバン」というのも非常に興味深い。私はマレーシアでこの新型肺炎と向き合うことになったのでロックダウン(行動制限)を経験している。一番厳しい時は「買い物も目的がちゃんと証明がなかったらダメ」「運動のためにマラソンしてたら逮捕」とかあった。詳しく知りたい人はこちらをどうぞ。
その経験から私には「新型肺炎、感染症は怖い、外出したくないし人に会いたくない」という認識が根本的に植え付けられてしまった。つまり「移動は罪、会うことは暴力」という思想である。
「人は生きてるだけで罪」なのか。どんどん宗教的になっていく。宗教が寄り添うことで天災や感染症など「人間の行動だけではどうしようもない災い」と戦う覚悟が出来るということなのかもしれない。その時、信じてる宗教が日常に近ければ近いほど、人は心理的に安定する。「人間の行動だけではどうしようもない災い」はゴールが見えない。ああもう少しで終わり。。と思ったらいきなりひっくり返されることもある。だから「なかったことにする」で乗り越えようとする人も出てくる。そこから更に混乱がうまれ、暴力がうまれている。
「移動は罪、会うことは暴力」だとしたら勧進キャラバンはまさにこの罪、暴力を体感する行為だ。苦行以外の何者でもない。
そしてこの行動に関してカテゴリーを大きくしていくとまた私は混乱する。私は「勧進キャラバン」は許され、「パチンコの開店前の行列」を許せない理由をちゃんと説明できるだろうか。できないなあ。
大仏建造などは「供養する事実の数年後に実現することが多い」そうだ。つまり「見えない敵の消滅を実感し、安心すると同時に忘れてしまわないように行われる行為」のようだ。震災のような自然災害だとそのような年季的な区切りは付けやすい。でも今回の感染症のような「終わりの見えない天災」に対してその時期が行われるまで苦行を続けるのか。そんなゴールの見えないこと、凡人にできるのだろうか。
宗教が日常に溶けている生活を感じながら生活を送っていると宗教の強さを実感することが多い。まさに信じるものは救われる。こちらが無条件に頼り、弱みを見せ、自分を受け入れてくれると確信できる存在があると自分自身が確実に強くなっていく。信じるものが明確にない側からすると、その強さは際立って見える。
日本社会における「宗教と日常が持つ「微妙な距離感」」は人々に根底的な不安を常に注入しているように私は感じる。皆、不安なのだ。(だからカルト大国なのかもしれない)この微妙な距離感を消すにはまずは「他人を気にしない」から始めるしかないんだろうか。
そしてコロナ大仏における討論を聞いていて心配になってきた。一般論で日本の感染症との関係性において「過去を検証していない」のは何故なんだろうか。私は去年、瀬戸内国際芸術祭にて初めて大島を訪問した。大島はハンセン病の隔離があった島。
日本のハンセン病の歴史を振り返ると、日本人と感染症の関係性が見えてくる。以前 #DOMMUNEの 「ポストパンデミックと芸術の使命」でもハンセン病に関しては触れられていた。
ここで紹介していた「隔離という病」は必読だと思う。
何故今回一般論として「ハンセン病」の振り返りが聞こえてこないんだろうか。(私が外国暮らしで見えてないだけ?)ここでの日本人の心境、行動を振り返ると矛盾や具体的な討論点が見えてくる気がするんだけど。
例えば
この討論でも何度か出てきた「人の人生は1回か輪廻か」論。この矛盾してる思想をどう共存させていくかを改めて考えるべきなのに、その点に踏み込みは少ないように感じる。大島では各宗教の祈りの場があった。そして亡くなった方のお墓は集団埋葬になっていたような気がする。つまり輪廻を願う場はあっても結果的に輪廻を願う場所に入れない。これが明らかに矛盾だ。その矛盾を「矛盾するけどどうしようか」と寄り添って向き合う姿勢はあったのだろうか。その点などがとても気になる。
「辛い時には大仏建造」と気軽に言っていた私だった。今回も「コロナ大仏ってどんなものなんだろう?」くらいの軽い気持ちでの番組を見始めた。結果として「生きることと信じることとはなんぞや」レベルの壮大な思想に向き合うことになった。もう少し色々考えてみたいと思う。
とても有意義な時間でした。ありがとうございました。